じじぃの「神話伝説_132_禁欲・節制・貞潔(キリスト教)」

Love Story / Namie Amuro (安室奈美恵) 動画 YouTube
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 愛

『宇宙をつくりだすのは人間の心だ』 フランチェスコ・アルベローニ/著、大久保昭男/訳 草思社 1999年発行
失われた罪と罰 より
キリスト教の全時代を通じて、”罪””罰””地獄”といった言葉は残ってきた。キリスト教の神は二面性をもっている。その一面にはやさしさと愛があり、他面には、その律法をほんのわずかでも侵す者には永劫の苦しみで罰する暴君の顔がある。つまり、その”恩寵”によって照らされるゆえに人々は神を愛し、永劫の苦しみを恐れるゆえに神を恐れるのである。罪とは神への冒涜であり、神の怒りと罰を招く行為なのである。
私たちは、もはや神が不興を抱くことも怒ることもないと知っているので、罪の意識をもつことはない。神はすでに嫉妬深い長老でもないし、幼稚な恐怖の象徴でもないからである。
罪は罰への恐怖の消失とともにこの世界から姿を消したのである。罪と罰は表裏一体の関係にある。神の怒り私たちの不敬・不信を罪とするところのものは罰のなかに表われるか、許しのなかに消えるが、私たちの不敬・不信を憐れむことはない。むしろ現在、私たちが感知できる神は、人間を自然の被造物としての卑小さゆえに、その愚かさゆえに憐れむのである。
人間の悪性を真(ま)に受けることはないのである。私たちは今日では自分の子供に体罰を加えることはあまりない。また、なおさら拷問を加えたりはしないのに、どうして神がそれを行うことがあろうか。私たちはもはや復讐を美徳とは考えていないのだから、どうして神が復讐者であるだろうか。キリスト教の教義には、今日ではすでに姿を消している人間と自然、君主と臣下、父と息子といった関係が残っているのである。神によって加えられる刑罰が地獄のものであれ現世のものであれ、私たちには異様であり不可解で邪悪なものに思えるのは、このためである。
恋愛とエロティシズム より
では、性に関してはどうだろうか。キリスト教的な宗教心が衰退した理由の一つに、性に対する態度の変化も含まれていないだろうか。キリスト教が生を恐れ、性を敵視してきたのに対して、現代の世界は聖を露わにし、性に価値を見出し、罪の意識を払拭し、品格さえ付与した。
おそらくこれこそは、文明の発展、精神神経症理論、さらには無意識についての理論の発展に、フロイトがもたらした最大級の貢献である。彼の思想に負う長い準備がなかったならば、文字通り伝統的な性道徳を崩壊させた60年代の性の革命もなかったはずである。まさにそれは崩壊したのである。
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ところで、エロティシズムとキリスト教のあいだにある関係の本質を理解するためには、それが歴史的にどのように形成されてきたのかを理解しなければならない。肉体的な快楽に対する差別は、ミシェル・フーコーが著作中で述べているように、すでにキリスト教以前の多神教時代の後期に始まっていた。
しかし、キリスト教の運動がそれに新たな次元と意味を与えたのである。キリスト教は神の王国を宣言し、この王国に対して現実世界を低いものとみなし、精霊に対して肉体を低いものとみなす。新たなる人間であり、生まれ変わった者であるキリスト教徒は、本質的に神とその愛徳に帰依しなければならない。現実世界やその快楽に屈してはならないのである。
キリスト教的節制の最大の擁護者はオリゲネス(185〜254。アレキサンドリア生まれの神学者)で、彼は神秘主義者であった。その説によれば、性は避けるべきものでも抑制すべきものでもないが、それは、性の原初期の強さをとり戻し、神を求め、神のなかに至福を見出すという観念的なエロスであるべきであった。一方、単純な肉体の快楽は堕落であり、脆弱で生彩を欠くもので、より劣等で愚かしい肉体的感覚であるとみなさなければならなかった。
また、聖アウグスティヌスも、禁欲節制に身を捧げた人々のなかに神の愛と慈悲がより豊かに満ちあふれていると信じていたので、貞潔の誓いを擁護した。これは誤りではなかった。のちにフロイトが、これは人間の性的衝動がそのような形で、”昇華”するために起こるものであると説明するのである。
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恋する人たちは、恋をすることが天と地を一つに結ぶような神聖なこと、宗教的な行動であるという思いをはっきりと抱いている。秘蹟としての婚姻という観念は、愛しあう恋人たちの、この深くて始原的な体験を思想的に、制度・慣習的に書きかえたものにほかならない。愛の発生期には、個人は宇宙や自然と融合しているような思いを抱く。自己のなかに大宇宙を実現するのは、人間という小宇宙なのである。