じじぃの「科学・芸術_963_アイルランド・独立」

アイルランドを知るための70章』

海老島均、山下理恵子/編著 赤石書店 2004年発行

自由への戦い アイルランド独立戦争 より

アイルランドが独立へと動き出す契機となったのは、1912年にハーバート・アスキス自由党内閣が英国議会に提出した「第3次自治法案」であろう。このとき自由党は下院において271議席を有し、対する保守党および「リベラル・ユニオ二スト」は273議席と拮抗し、42議席労働党と84議席アイルランド国民党がキャスティング・ボードを握っていた。そのため、自由党内閣はアイルランド国民党が要求するアイルランド自治に取り組まざるをえなかったのである。
第3次自治法案は、1914年に下院を通過し、アイルランド自治議会が認められることになった。だが、その実施は第一次世界大戦の勃発によって延期された。このとき自治ではなく完全な独立をめざしたIRBアイルランド共和主義者同盟)は「義勇軍」(後のIRAアイルランド共和軍1919年頃からIRAと呼ばれるようになった)を利用し、1916年、「イースター蜂起」を決行した。この義勇軍の結成は、北アイルランド自治法案への徹底抗戦の動きに端を発している。
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IRAがゲリラ戦を展開する一方で、国民議会はアイルランド人が国家を運営できることを内外に示そうとした。1919年に開催された国民議会において、大統領に選出されたエイモン・デ=ヴァレラは、シン・フェイン党の指導者アーサー・グリフィスを内相兼大統領代理、IRAの支配権を握っていたマイケル・コリンズ財務省に任命した。「革命政府」が動きはじめたのである。革命政府の活動のなかでとくに注目を集めたのが「共和国裁判所」である。裁判所は土地問題をはじめとして、地域のさまざまな紛争を解決しようとした。だが、こうした革命政府の活動もゲリラ戦の激化によって休止に追い込まれていった。
英国世論はアイルランド独立戦争に関してしだいに英国政府に批判的な眼を向けるようになっていった。その契機となったのが、「ブラック・アンド・タンズ」や「補助部隊」という元英軍兵士によって構成された警察の特別部隊の活動である。IRAの軍事活動の激化によって、アイルランドの警官の辞職者が増加し、治安当局は警官の補充を迫られた。その補充として英国政府は、第一次世界大戦に従軍し退役した英軍兵士を特別部隊に組織したのである。彼らはIRAの軍事活動への報復としてIRAのメンバーが潜伏していると推測される地域の建物に放火し、商品の略奪を行い、英国や米国の世論を憤激させた。
また、英国政府内部においても、ゲリラ戦を戦うIRAを軍事的に制圧することが不可能であるという意見が影響力をもちはじめた。
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英国政府は1921年7月、革命政府の指導者と交渉をはじめ、同年12月、両者の間で条約(英愛条約)が調印された。この条約はアイルランドに新たなな問題を投げかけた。つまり、多くのアイルランドナショナリストが望んでいた「共和国」ではなく、「英連邦内の自治領」というステイタスをアイルランドに与えるというものだったからだ。コリンズらの条約賛成派は、自治領としての地位の獲得を共和国への「実質的な第一歩」だとみなした。これに対してデ=ヴァレラに代表される条約反対派は、あくまでも共和国の獲得に固執した。国民議会において白熱した議論の末、条約は僅差で批准され、1922年、アイルランド南部26カウンティは「アイルランド自由国」として英国から「独立」することになった。条約では北部アルスターの6カウンティを南部から分離することが盛り込まれていたが、この部分については当時それほど問題視されてはいなかった。
条約反対派は、賛成派(アイルランド自由政府)に武力攻撃をしかけ、ここに1年近くにわたって内戦が戦われた。自由国政府は英国政府からの武器援助を受けながら、戦いを有利に進め、最終的に勝利を収めた。アイルランドが英連邦を離脱し、現在の「アイルランド共和国」という政体になったのは、1949年のことだった。