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Daniel O'Connell
『アイルランドを知るための70章』
海老島均、山下理恵子/編著 赤石書店 2004年発行
独立への流れ ユナイテッド・アイリュシュメンからフイーニアンへ より
ユナイテッド・アイリュシュメンの蜂起失敗以後、民族の指導者として登場したのが、カトリックの地主ダニエル・オコンネルである。オコンネルが最初にめざしたのは、カトリックの地位向上であり、彼は1823年に「カトリック協会」を設立した。そして1829年に「カトリック解放法」を英国議会で可決させ、カトリックに英国下院議員、閣僚、判事、陸海軍の将官への道を開いた。
オコンネルが次に組織した運動は、英国とアイルランド間の合同法を撤廃しようとする合同法撤廃運動であった。オコンネルはアイルランドが必要とする政策を英国議会から引き出すことは不可能と考え、合同法によって失った自治を取り戻そうとしたのである。だが、英国政府から譲歩を引き出すことができず、運動内で彼の影響力はしだいに弱まっていった。かわって運動の主導権を握ったのが、「青年アイルランド」であった。やがて大陸での革命や治安当局による弾圧などによって運動は急進化し、彼らは1848年7月に蜂起を決行した。蜂起は小規模な戦闘で終ったが、「1848年蜂起」としてユナイテッド・アイリュシュメンの蜂起とともに、アイルランドのナショナリストの記憶に刻み込まれていく。
ここで19世紀半ばすなわち大飢饉以後のアイルランド民族運動の大きな変化を説明しておきたい。それは、米国にわたったアイルランド人すなわちアイルランド系アメリカ人が、アイルランドの民族運動に重要な役割を果たすようになったということである。アイルランド人移民たちは大飢饉の強烈な記憶をもっており、それを容易に反英闘争へと転化していったのであう。また、米国において彼らの前にはWASP(アングロ・サクソン系でプロテスタントの白人、通称ワスプ)による差別もあった。米国における自分たちの地位向上のためにも、母国アイルランドの独立を支援したのである。
アイルランド系アメリカ人の支援を受けて1858年にダブリンで設立されたのが、IRB(アイルランド共和主義者同盟)である。IRBは武力闘争にyって英国から独立し共和国(具体的にイメージされていたのが米国)を建設することをめざした。67年に蜂起を決行し、1916年の「イースター蜂起」や独立戦争では中心的役割を果たした。またIRBのメンバーは「フイーニアン」と呼ばれたが、この名称は、IRBを物的・人的に支援するために1859年にニューヨークで結成された「フイーニアン・ブラザーフッド」(以下FBと略記)に由来している。
IRBは資金不足に悩まされるとともに、警察の監視態勢のもと武器密輸などの蜂起準備を自由にすすめることができなかった。しかしFBは「アメリカ人将校たち」(南北戦争に従事した軍人)を蜂起指導者としてアイルランドに送り込み、IRBに67年3月に蜂起を決行させた。この蜂起は準備も不充分なまま決行され、さらに命令系統も混乱したためIRBは自滅していった、
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アイルランドの独立運動についていえることは、合法的運動と武力闘争による運動の間を振り子のように揺れ動くことである。経済的・社会的状況に応じて、あるときには合法的運動が勢力を拡大し、あるときにはその逆が生じたのである。19世紀における合法的運動は、1782年に自治を獲得した義勇軍の運動を起源とし、オコンネルによる英国との合同撤廃運動そしてチャールズ・スチュワート・パーネルの自治運動となっていく。一方、武力闘争によって独立を獲得しようとする運動は「ユナイテッド・アイリュシュメン」から「フイーニアン」に至るのである。