じじぃの「科学・芸術_739_スペイン・アンダルシアのジプシー」

Spanish gypsies' Thar connection 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kA-aXAiv4LU
lassify russian gypsies acting as spanish gypsies

『アンダルシアを知るための53章』 立石博高、塩見千加子/編著 赤石書店 2012年発行
アンダルシアのロマ ヒターノたちの歴史と現状 より
ロマとは誰か。この問いに答えるのは難しい。ロマとは、「ジプシー」と呼ばれる人々であるが、「ジプシー」という呼称が差別的であるとされ、現在では「ロマ」への呼び変えが一般化している。しかしスペインでは、「ジプシー」を意味する「ヒターノ」という呼称が、ヒターノと非ヒターノ両者から使用され続ける傾向にあり、その背景には、複雑な歴史・地域的かつ政治的な事情が存在する。
かつてアンダルシアは、フランスやイギリス諸国におけるロマン主義や東洋趣味の格好のテーマとなり、ここに多く暮らすヒターノたちもその対象となった。セビーリャを舞台として展示されたプロスペル・メリメカルメンの物語をご存知の方も多いはずである。
ロマたちの故郷についてはさまざまな議論があるが、インド方面にあるとされる故郷を離れ、彼らがスペインへ到来したのは15世紀初頭である。スペイン東部を経由し、アンダルシアへ到来したのは1462年11月22日であるとされている。その日、ハエンの町に、小エジプト(現在のギリシャ、ヘロボネソス半島あたりとされている)から2人の伯爵トマスとマルティンが100人の同郷人を引き連れてやってきて、歓待を受けたという記述が残っている。今では、この日11月22日は《アンダルシアのヒターノの日》とされ、アンダルシア・ヒターノ社会文化センター主催により、《ヒターノ文化賞》の授与が行われ、ヒターノにまつわるさまざまなイベントやフラメンコの上演などが実施されている。
ヒターノたちにとってアンダルシアとはいかなる地なのか。そこはかつてより彼らが好んで暮らした場所であり、アンダルシアのヒターノを語ることとその他の地域のヒターノを語ることは同じではない。《ヒターノ財団》の2007年のデータによれば、今日でもスペイン全体の3分の1以上のヒターノがアンダルシアに暮らしている。先に触れた《ヒターノ文化賞》の徐よなど、ヒターノ文化の保護に向けた動きは、他の州に比べてアンダルシアではかなり手厚く、ヒターノの保護や支援を行う協会や結社などの数もアンダルシアがもっとも多い。
なぜロマたちはアンダルシアに定着したのか。1492年のカトリック両王によるレコンキスタ完了の後、ヒターノは、周囲の人々がさげすんだり、駆逐される前にムスリムイスラーム教徒)が従事していた商売や工芸を生業とし、さまざまなすき間を埋める形となった。ヒターノたちが従事した職業は、鍛冶、籠編み、銅製品製作、家畜の取引、剪毛、農業、そして芸術などであるとされている。また、ヒターノたちはムスリムたちがかつて暮らしていた洞窟などに暮らし、さまざまな形でムスリムたちの穴を埋めていった。
彼らのアンダルシアでの暮らしを知る手掛かりとなる、いくつかのエピソードが残っている。アンダルシアにおけるヒターノの洗礼や結婚、聖体の祝祭への参加の記録は16世紀初頭にさかのぼる。また1576年には、アンテケーラという町に住むヒターノ家族がスペイン王国内を自由に移動する許可を求めた際、司祭や町議会議員たちが、これらの家族が善良なキリスト教徒であり、土地をもち、子どもを学校にやり、他の一般スペイン同様の暮らしをしていることを証明したという記録が残っている。実際、彼らは地元住民の間に溶け込み、土地を耕し、そして納税をして暮らしていた。