Alhambra Vacation Travel Video Guide
『アンダルシアを知るための53章』
立石博高、塩見千加子/編著 赤石書店 2012年発行
グラナダ陥落からモリスコ追放へ より
赤いアルハンブラ宮殿の背後に白く輝くシエラ・ネバータ(ネバータ山脈)。アルハンブラが紹介されるときの定番の写真(画像参照)である。ダロ川をはさんで宮殿の対岸にあるアルバイシンの丘から撮影された写真で、一見すると絵葉書的な景観にすぎない。しかし、キリスト教徒の勝利とムスリム(イスラム教徒)の敗北を象徴する場所がこの1枚に収められていることに気づくとき、この景観はまったく別のものに見えてくる。1枚の写真を手掛かりに、グラナダ陥落からモリスコ(イスラムからキリスト教への改宗者)追放までの歴史を振り返ってみよう。
まずキリスト教徒勝利を象徴する場所は、写真中央奥の角張った建物である。手前に写るイスラム式の宮殿とは明らかに雰囲気の異なる威圧的な外観。アルハンブラ宮殿と同じ敷地に建っているためその一部と誤解されることも多いが、これは「カルロス5世宮殿」という後の時代に別の意図で建てられた建物である。
1492年、カトリック両王イサベルとフェルナンドは、イベリア半島最後のイスラム王朝であるナスル朝の首都グラナダを攻め落とし、スペイン中世を貫いてきた対イスラム戦争「レコンキスタ」を終結させた。このとき、アルハンブラ宮殿の主であった王族や貴族はモロッコなど近隣のイスラム国へと去ったが、一般のムスリム住民はグラナダに留まった。1526年、カソリック両王の孫にあたるカルロス1世は新婚旅行の途中でグラナダを訪れた。カルロスの父方の祖父は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世で、カルロス自身も1519年以降は皇帝とスペイン国王の両方を兼ねており、神聖ローマ皇帝としてはカルロス(カール)5世となる。フランドル育ちでアル・アンダルスの文化に触れることのなかった王にとって、グラナダ滞在はムスリムの文化水準を自身の目で確かめる機会となった。半年ほどアルハンブラ宮殿の1室に滞在した後、カルロスは決断する。「この宮殿の価値は計り知れない。しかしナスル朝時代の影響が色濃く残るこの地で、祖父母が成し遂げた異教徒征服という偉業を視覚化し、統治の拠点となる建物もまた必要である」と。こうして1527年に「カルロス5世宮殿」の建設が始まり、アルハンブラ宮殿の隣接地に巨大なルネサンス様式の宮殿が出現した。
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しかしイスラムからキリスト教への改宗は形式的で、多くのモリスコは隠れムスリムであり続けた。16世紀前半のカルロス1世の時代はモリスコへの監視が緩やかであり、モリスコは国王に高額の貢納金を支払うことと引き換えにイスラムの習慣に対する禁令履行を猶予された。こういった貢納金の一部が、カルロス5世宮殿の建設にあてられたのである。しかし、カルロスの王位を継いだフエリーベ2世は厳格なカトリックであり、モリスコの請願には耳を傾けなかった。さらに、地中海世界の情勢も変化していた。オスマン帝国が勢力を伸ばしていたこの時期、いつ内通者になってもおかしくないモリスコの存在は国防上の問題となっていた。1567年、それまで猶予されていたモリスコに対する禁令が一斉に効力をもつようになる。モリスコの緊張は高まり、ついに1568年末、グラナダとアルプハーラスで2度目のモリスコ反乱が勃発した。争乱は1570年末に終結したが、モリスコにはグラナダ王国からの強制移住という過酷な運命が待っていた。およそ8万人のモリスコがアンダルシアや半島内陸部の都市へと移住された。グラナダにとって真にイスラムの時代が終焉したのは、1492年ではなく1570年だといえる。