じじぃの「科学・芸術_791_ユダヤ教・ポーランドのユダヤ人」

History of the Jews - summary from 750 BC to Israel-Palestine conflict

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KR9sWRzbdJw

Jews in Poland

ユダヤ人とユダヤ教

 市川裕/著 岩波新書 2018年発行

イスラム世界からヨーロッパへ より

本書では便宜的に、イスラム世界の出現をもって中世の始まりとする。中世においてユダヤ人はイスラム世界に組み込まれることで、バビロニアを中心にユダヤ史のなかでも類をみない繁栄を享受することになる。とくに学問の隆盛と交易での活躍が目立つ。私たちの歴史認識からすっぽりと抜けてしまっているのが、この中世のイスラム世界におけるユダヤ人とユダヤ教である。その欠落を補うことも本書の重要なテーマである。
イスラム世界ではアラビア語による法学が学問の中心となった。それが、ユダヤ人の方角を一層発展させる。アッバス朝時代(750ー1258)にはバビロニアの2つのイェシヴァ(スーラとブンペディーダ)の権威が、イスラム世界におけるユダヤ社会全体を覆うまでになった。
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イスラム世界で移動の自由が確保できたことは、通商の民でもあるユダヤ人には格別の生活条件であったと想像できる。遠隔地のユダヤ人同士が同一のユダヤ法に服することから、商業と婚姻のつながりを通じたユダヤ社会の広域ネットワークが充実していく。こうしたユダヤ社会の繁栄を証拠立てるのが、19世紀末、カイロのシナゴーグの廃書蔵(ゲニザ)から発見された大量の古文書である。
カイロ・ゲニザ文書と呼ばれるその古文書は、宗教文書と経済文書に大別される。ゲニザの経済文書に関する研究によれば、ファーティマ朝がカイロに進出する969年からアイユーブ朝が滅亡する1250年まで、地中海を囲む国々、とくにイスラムの国々によって自由貿易圏が形成されていた。地中海地域を舞台に、ヒト、モノ、カネ、書物が縦横に交流する社会を想定して、これを「地中海社会」と呼ぶ。ユダヤ人がナイル川河口近くのフスタートを中心に、地中海とインド洋の中継貿易で大いに繁栄した姿が浮かび上がる。
インド洋から地中海にかけての貿易はイスラム商人とユダヤ商人を活気づかせた。
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中世ヘブライ語では、スペインを「スファラド」、その出身者を「スファラディ」と呼び、ライン地方を中心とする中欧を「アシュケナズ」、その出身者を「アシュケナジ」と呼ぶ。スペインで長くイスラム文化の影響を受けたスファラディユダヤ人の社会では、哲学的合理主義と中庸の徳が推奨された。社会への適応が重んじされ、キリスト教徒による迫害に対しては生き延びることを優先し、キリスト教への改宗も行われた。のちに交易で活躍するポルトガルの新キリスト教徒(改宗ユダヤ教徒)はその好例である。
一方、アシュケナジ系ユダヤ人の社会では、敬虔さを重視する宗教思想が尊ばれた。そのため、キリスト教徒による迫害に対して果敢に殉教する道が選ばれた。西欧・中欧の各地を追われたアシュケナジ系だユダヤ人は、東欧のポーランドに安住の地を求めて移動していく。
9世紀から10世紀にかけてのスペインでは、イスラム教、ユダヤ教キリスト教の3つの一神教が1つの地に共存するという稀な時代が生まれていた。その3者に亀裂を生じさせたのがレコンキスタ、すなわちキリスト教徒による再征服運動である。後ウマイヤ朝の衰退とともに活性化したレコンキスタは、十字軍の動きとも呼応しつつ、1492年、イベリアの半島南部を支配したナスル朝グラナダ王国の滅亡をもって完成する。
イベリア半島からイスラム世界が消滅し異教徒を厳しく排除するキリスト教徒がスペイン全土を席巻すると、ユダヤ人は追放される身となった。追放されたスファラディユダヤ人たちのおもな行き先はバルカン地方である。その多くはオスマン帝国の勢力下にあるイスラム圏を目指した。ビザンツ帝国を滅亡させたオスマン帝国は、イスタンブールを首都と定め、バルカン地方の支配を確立する。急速に拡大する帝国は、行政官をはじめ有為な人材を必要としていた。スペインを追放されたユダヤ人たちは、オスマン帝国に安住の地と活躍の場を見出す。新天地で医師、交易商、金融業者として才を発揮するようになった。
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一方、アシュケナジ系ユダヤ人の足跡はどのようなものであったか。西欧キリスト教世界の勢力拡大は、1348年のペストの猛威も手伝って、ユダヤ人への迫害を激化させた。
キリスト殺しの末裔、イエスの救いを頑固に拒む者といったイメージが流布し、いわゆる血の中傷事件が西欧各地で頻発する。ユダヤ人がキリスト教徒の幼児を殺害し、その血を過ぎ越し祭の種無しパンにいれたという虚偽の噂から発した暴動と虐殺である。
この時期から、アシュケナジ系ユダヤ人たちは徐々に東欧地域へと逃れていく。主要な行き先はポーランドである。なぜポーランドなのか。それは、1264年、ユダヤ人の居住と信仰の認めるカリシュ憲章にもとづいて、ポーランドではユダヤ人の受け入れが早くから行われていたためである。1241年のモンゴルの侵略で多大な損害を被ったポーランド国王は、ドイツ方面からの移民を奨励し、国の復興を加速する必要に迫られていた。交易が得意で貨幣鋳造技術をもつユダヤ人集団に大きな期待が寄せられ、ユダヤ人に自治を与えて定着を促進する政策が実地されたのである。
16世紀の宗教改革期には、ユダヤ教プロテスタントの信仰を保障したことにより、ポーランドは欧州で最大のユダヤ人受け入れ国になった。14世紀初めには約2万人であったユダヤ人の人口は、17世紀半ばには50万人に増大している。東欧におけるユダヤ人の人口は20世紀前半には800万人に達するまでに至る。
受け入れに際して商業活動での自由を認める代わりに税を徴収したことは、ポーランドオスマン帝国と同様である。国王はユダヤ人から税を一括して徴収できるよう、主席ラビを中心に全国的な統一自治組織を運営させた。ポーランドの行政区分に従って、ポズナニクラクフなどの重要年をはじめ、各地で「ケヒラー」と呼ばれる共同体が組織された。ケヒラーを運営する評議会の委員たちは、共同体内の規則を制定し、ユダヤ教の教えに則ったハラハー(ラビによる律法)の履行を監督した。