Schoolhouse Rock - ''The Great American Melting Pot'' 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5ZQl6XBo64M
The Birth of a Nation (1915 film by D.W Griffith) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=I3kmVgQHIEY
人種の坩堝
『移民国家アメリカの歴史』 貴堂嘉之/著 岩波新書 2018年発行
アメリカはいつ「移民国家」となったのか? より
読者のなかには、「移民国家 アメリカはいつ誕生したのか?」と、より直接的な問いを発する者もいるだろう。しかし、この神話/伝統は一続きのきれいな系譜をなしているわけではないので、特定の起源を明らかにすることができない。むしろそれは、植民地時代から現在に至るまで、新世界「アメリカ」を出身地の家族に向けて「約束の地」「自由の地」として語ってきた数千万の移民たちの声、外国からアメリカを訪れた人々によるアメリカ論、ヨーロッパとは異なる例外国家としてアメリカの国家的な理念を語ってきた政治家の声など、全体としては無数の声や物語の寄せ集めでできているのが特徴なのである。
そもそも、アメリカ独立宣言(1776年)からして、「この地への移住を妨げた」ことをイギリス国王ジョージ3世の犯した許されざる失政の1つとして告発しており、旧世界からの移住の促進は、新生国家アメリカの発展や開発のためには不可欠の政策と位置づけられていた。独立革命に大きな影響を与えたトマス・ペインの『コモン・センス』(776年)には、「亡命者を受けとめよ、そして、いつしか、人類の避難所(an asylum of mankind)となる準備をせよ」との記述がある。
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つまり自由の女神像は、移民制限によって国内の激しい移民排斥運動が鎮静化するなかで、初めて移民歓迎の「創られた」シンボルへと変貌したのである。
こうして自由の女神像は移民国家アメリカのシンボルとして定着していくことになるのだが、次に、そのシンボル受容の素地となった世紀転換期アメリカの文化多元主義的な国民秩序の模索と坩堝論の系譜をたどってみよう。
まずその前提として、アメリカの国璽(こくじ)と呼ばれる紋章に刻まれた”E Pluribus Unum”という標語をご存知だろうか。手元に米ドル紙幣があれば必ず印刷されているので、見てほしい。古代ローマの詩人ウェルギリウスの詩からとったとされるこのラテン語の標語は「多からなる1(One out of many)」と訳され。もともと13植民地が1つの連邦国家をなすという政治的総合の意味であったが、現在ではアメリカが1つの社会であることの比喩として用いられ、多人種多民族国家の「多様のなかの統一」の意味で用いられている。
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この「多からなる1」の国民統合の表現として最も広く受け入れられているのが、「坩堝」という比喩である。「坩堝」がアメリカ社会の表現として広く用いられるようになったのは、20世紀初頭、ユダヤ系作家のイスラエル・ザングウェル(1864-1926)戯曲『るつぼ(Melting Pot)』(1908年初頭)が発表されて以降のことである。
この戯曲は、ロシア系ユダヤ人家族の物語である。家族はロシアでポグロムの犠牲になり、主人公だけがアメリカへと渡った。作曲家の主人公は、ロシア出身の女性との恋愛を通じ葛藤しながらも、異なる背景を持つ人々を抱きしめる移民社会アメリカの偉大な包容力に将来の希望を見出す。そして最後にはアメリカを主題とした交響曲を完成させ、公演は見事成功する、というストーリーである。
物語の最後で、主人公が安アパートの屋上から自由の女神を眺めつつ口にするのが、「坩堝」という言葉である。「アメリカは神の坩堝」、「ヨーロッパのあらゆる人種が融けあい、再形成される偉大な坩堝。……ドイツ人もフランス人も、アイルランド人もイギリス人も、ユダヤ人もロシア人も、すべて坩堝のなかに溶け込んでしまう。神がアメリカを造っているのだ」と。
序章でふれたフランス人作家クレヴクールの『アメリカ農夫の手紙』(1782年)が同じ坩堝論に連なる古典として読み直され、注目を浴びるのは、まさにこの時期のことである。また坩堝論の系譜でもう1人忘れてならないのは、『アメリカ史におけるフロンティアの意義』(1893年)で有名な歴史家、フレデリック・ジャクソン・ターナー(1861-1932)である。
ターナーは、フロンティアでこそ、アメリカ独自の個人主義、機会の平等、デモクラシーが生まれたと唱え、フロンティアはアメリカ人にとって、複合的な国民性の形成を促した。……フロンティアの坩堝(Crucible)のなかで、移民はアメリカ化され、解放され国民性も特性もイギリス人とは異なった人種へと融合されていった」と主張した。
こうして世紀転換期に登場する「坩堝」という国民統合の比喩の系譜をたどることができるが、序章でも指摘したとおり、坩堝に参入できる集団はヨーロッパ系白人に常に限定されていた。南北戦争から半世紀が経ち、人種隔離体制が完成するこの時期に、南北戦争は「奴隷解放のための戦争」の意義を失い、「白人同士の兄弟喧嘩」へと読み換えられ、退役軍人らによる南北和解が急速に進んだ。この南部白人と北部白人の和解がヨーロッパ系移民を含む白人限定の「坩堝」論の受容を後押しし、新たな国民創成の物語を誕生させた。それが、1915年に公開された大人気映画『国民の創成』(D・W・グリフィス監督)である。クー・クラックス・クランが救世主となり国家が再生されるという、史実にもとづかぬ偽史に、国民は熱狂したのである。