じじぃの「科学・芸術_720_世界の文書・『天文対話』」

Dialogo terzo, Dialogo di Galileo Galilei

Galileo Galilei

『図説 世界を変えた100の文書(ドキュメント):易経からウィキリークスまで』 スコット・クリスチャンソン/著、松田和也/訳 創元社 2018年発行
『天文対話』 (1632年) より
地球ではなく太陽こそが宇宙の中心であるという理論を提唱するために、当代随一の科学者は彼の議論を劇化し、教会の教義を笑い物にする機知に富んだ対話篇に仕上げた。だがガリレオは最終的にはローマの異端審問の手に落ちる。
1632年の時点で、偉大なトスカーナ天文学者・数学者・哲学者のガリレオ・ガリレイ(1564 - 1642)は既に望遠鏡の設計や驚くべき天文学上の発見によって高い名望を獲得していた。だが、ほぼ1世紀前にコペルニクスが唱えた太陽中心説(地球ではなく太陽を太陽系の中心とする)に対する彼の支持は頑固な教会の教義とは相容れず、ゆえに彼は安全を確信できる時まで自らの結論を書き記すことを差し控えていた。彼の最も有力な支持者である枢機卿マッフェオ・バルベリーニが教皇ウルバヌス8世として選出されると、ガリレオは自分の科学的観点を表明しても迫害されることはないだろうと判断した。特に、自らの主張をユーモアで包んでしまえば、
ラテン語の代わりに母語であるトスカーナ方言を用いて、ガリレオは3人の架空の人物の間の機知に富んだ不躾な対話劇の形で500頁に上る本を書いた。3人は地球の運動、天体の構造、そして潮の満引きに関する4日に及ぶ理性的な議論を繰り広げる。この対話が行われたのはヴェネツィアで、そこでは潮の満引きの挙動は大きな関心事だった。「学士院会員」サルヴィアティはガリレオ自身の見解を表明する。サグレドは真実を探求する裕福な俗人で、当初はこのような問題に中立の態度だったが、やがて理性によって説得される。そしてシムプリチオは保守的なプトレマイオスアリストテレスの信奉者で、頑固に教会の教義に固執する。プトレマイオス宇宙論コペルニクスが1543年に自らの理論を発表するまでは質(ただ)されることはなかったもので、太陽ではなく地球を宇宙の中心に置いている。
詩的であり、教訓的でもある共通語で語られるこの愉快な顔合わせには、偏狭かつ不合理な思想家に対する辛辣な言葉が織り交ぜられている。潮汐を主題とする対話篇の最終章は、特にカトリックの聖職者団の怒りを買った。というのもそれは教会の教義を批判し、教皇の言葉を愚者の口に語らせ、教皇を笑い物にしていたからだ。
ガリレオが教会の教義に反する作品を書いたと報された教皇ウルバヌスは激怒し、この70歳の教授を異端審問の場に引きずり出して拷問に掛けよと命じた。
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教会から辱められ名声を地に墜とされたガリレオは失明した末、1642年に死んだ。彼の裁判と撤回の記録はヴァティカン文庫に保管されている。また同書の最初の刊本は、幾つかの主要図書館にある。