じじぃの「科学・芸術_715_ハイデッガー『存在と時間』」

Sein und Zeit

存在と時間 ウィキペディアWikipedia) より
存在と時間』("Sein und Zeit"、1927年)は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの主著。
この書の目標は巻頭言で次のように記されている。《「存在」の意味に対する問いを具体的に仕上げることが、以下本書の論述の意図にほかならない。あらゆる存在了解内容一般を可能にする地平として時間を学的に解釈することが、以下の論述のさしあたっての目標なのである。》
解釈学と現象学の方法によって「何かが存在するとはどういうことか」というアリストテレス形而上学』以来の問題に新たに挑んだ著作であるが、実際に出版された部分は序論に記された執筆計画全体のなかでは約3分の1のところまでである。『存在と時間』は実存主義構造主義ポスト構造主義など二十世紀の哲学思想にきわめて広範な影響を与えた。
存在論の歴史の解体】
存在者としての存在(「在るもの」として「在ること」)についての研究としての「存在論」(Die Ontologie)は歴史的には、アリストテレスによって定義されたのであるが(『形而上学』)、ハイデッガーによれば、古代ギリシアに始まる「存在論」は、中世のスコラ哲学によって発展し、主に近世のフランシスコ・スアレスの影響の下、デカルト、カントを経てヘーゲルの論理学に息づいている。ハイデッガーは、漠然とした「存在了解」の源泉をたどり、現在に至る哲学的伝統の歴史の「解体」(Destruktion)を企てた(序論第2章第6節)。

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『哲学のことば』 左近司祥子/著 岩波ジュニア新書 2007年発行
死を考える 自殺を考える より
  ダーザインは死への存在であり、……死は、追い越すことのできない可能性である。
「ダーザイン」(現存在または現有)というのは、ハイデッガーの好みの言葉です。人間は、他の動物と異なって、存在とは何かを問います。どんな犬が存在を問うたりするでしょう。でも、存在物を存在させる力でもある存在は、存在物のように、その辺に転がっているものではありません。だから、人間は、その答えを探すために、「その辺」ではなく、自分の存在にかかわるしくなります。そういう風にして、存在を問うものが現存在と呼ばれるのです。だから、「ダーザイン」とは人間のことと理解していいのです。だとすれば、この句は、「人間は死の存在である」と言い換えていいのです。
ハイデッガーのこの言葉は多くの哲学好きの心を惹(ひ)いてきました。それはたしかに、人間は2本足の動物であるなどというのより、深みのある言葉です。でも、よく考えるとおかしくないでしょうか。死への存在などというのは、人間だけではないのです。生きとし生けるもの、すべて死に向かっているのです。死というのを、存在の崩壊と読み替えていいのなら、すべてのものが、この宇宙でさえも、時の経つのに従って、崩壊へと向かっています。
  死はひとつの存在可能性で、これをそのつど現存在自身が引き受けねならないのだ。
これもまた、最初の言葉と同じように、魅力的ですが、先ほどのほどわかりやすくはありません。でも、注目しなくてはいかねいのは、死がダーザインとの関係で言われているということです。
ダーザインの意味が何であれ、人間をさす言葉なら、死は人間とともにあるということになります。もちろん、「ともに」というのも誤解を招くでしょう。「ともに」であるなら、これもまた、どんな存在物とも「ともに」あるものだからです。そこでもう1つ注目しなくてはいけないものが、「そのつど……引き受ける」という言葉です。死もまた、その辺に転がっているものではないのです。そうではなくて、そもそも可能性としてしかないものですから、だれかがイメージしてやらなければ、死はあるわけにはいかないのです。現存在である個人は個人が、イメージし、引き受ける、そこで初めて、死は自分とともにあることになるのです。
死が人間固有のものになるのは、こんなわけです。他の生き物だって、死を、あるいは、自分の終わりという可能性を意識することはあるかもしれません。昔、猫が自由に表を出歩けたとき、猫は飼い主に自分の死んだ姿を見せないといわれていたものでした。飼い主に見られないところで死んでいくものだということです。ということは、猫は、死ぬわずか前かもしれませんが、自分の終わりの可能性を意識できて、だからこそ、姿を隠しに外に出て行ったのだということになります。でも、死を「引き受けて」いたのかというと、そんなことはないでしょう。あの屈託のなさから見て、ありえないことのように思えます。
もっとも、人間の中にも、死をそこにある、存在物のような出来事としてしか見ない人だっています。自分に引き受けてイメージする気のない人々です。そしてそのほうがはるかに気が楽です。死への存在としての自分に感じる不安を感じないで済むからです。でも、こんな人をハイデッガーは das man(世人)と呼び、落ちた現存在のあり方だとしています。
こういわれると、どうしたって、人間であるからには、きちんと不安を感じること、何かで不安を紛らしたりしないことが奨励され賞賛されているような気がします。ハイデッガーにはその気がなくて、人間のあり方を書いただけだと言ったとしても、それを聞かされているほうは、ハイデッガーの言うことをなるほどと思っていればいるほど、 ハイデッガーのいうようにいつも死を意識し、不安をしっかり感じなくてはならないと思うものです。