じじぃの「人の死にざま_1478_L・ヴィトゲンシュタイン」

哲学入門54 ウィトゲンシュタイン入門 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8YdQKvs6TbY
ヴィトゲンシュタイン

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン ウィキペディアWikipedia)より
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(独: Ludwig Josef Johann Wittgenstein、1889年4月26日 - 1951年4月29日)は、オーストリアのウィーンに生まれ主にイギリスのケンブリッジ大学で活躍した哲学者である。著作活動は母語のドイツ語で行った。後の言語哲学分析哲学に強い影響を与えた。初期の著作である『論理哲学論考』に含まれる「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という命題は、一般にも有名な言葉の一つである。

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『本当にわかる現代思想 フシギなくらい見えてくる!』 岡本裕一朗/著 日本実業出版社 2012年発行
現代思想の源流となった7人の思想家 より
まず定番となった3人を考えることにしよう。1960年代のフランスで、しばしば現代思想の源流とされたのが、マルクスニーチェフロイトだ。彼らは「3人の懐疑の巨匠」と呼ばれ、一時期かなりブームにもなった。この3人の本を読んでなければ、現代思想は語れないという雰囲気だった。
しかし、マルクスニーチェフロイトは、それぞれまったく違う分野の思想家たちだ。マルクスは「資本論」を書いて経済学的分析をしたのに対して、ニーチェは「神は死んだ」と語ってニヒリズムを唱えた。またフロイト精神分析学をはじめ、医者として神経症の治療にあたった。
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ここに、ソシュールウェーバーハイデガーウィトゲンシュタインという4人を加えたい。表面的にみれば、ハイデガーを除いて、他の3人は「近代批判」を語っているわけではない。しかし深く読み解くと、彼らの思想は、明らかに近代批判に貫かれている。あるいは、近代を超える発想と呼ぶべきかもしれない。
たとえば、ソシュールウィトゲンシュタインを考えてみよう。この2人に共通している点は何だろうか。リチャード・ローティが有名にした言葉を使えば、2人の考えは「言語論的転回」と表現できるだろう。近代的な発想では、「意識」を中心に議論が展開され、言語はいわば副次的な役割にすぎなかった。ところが、ソシュールウィトゲンシュタインは「言語」を人間理解の中心と考え、近代的な発想を超えていく。この言語論的転回によって、2人は現代思想の開拓者となったのだ。

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『仏教が好き!』 河合隼雄x中沢新一 朝日新聞社 2003年発行
「否定」の先にあるもの (一部抜粋しています)
中沢――もちろんブッダが「空」と言っていることは言語化不能であるというのが原則なんですね。密教だけではなくて、「般若経」でも「言説不能、言葉で言うことは不能、だけどこれは確実に、肯定的に、ある」と言われます。すると「般若経」というのは微妙なんですね。文言では全部「否定」しているのもかかわらず。最後に「ギャーティーギャーティーハーラギャーティー」というマントラがついてしまう。これはいったい何ですか(笑)。
あれは結局マントラ一発で、お経の意味全部を包摂していることになるわけですから、「否定」「否定」と重ねてきた上で、これを「肯定」に転じてみせたことになります。否定をもって説かれたこの真理を、仮に言語音にすると「ギャーティーギャーティーハーラギャーティー」というマントラになるという。非常に微妙な構成をしていると思いますね。これを哲学で一貫性を持ったものとして体系化したら、何で「般若経」に「ギャーティーギャーティーハーラギャーティー」なんていうマントラがつくんだということになってくるでしょう。ここではすでに密教の思考法が侵入しています。
河合――ユングがよく使う言葉がありまして、英語でcircum ambulation、「巡回」という意味です。僕の好きな言葉なんですが、結局、中心には入れないということなんですよ。われわれはまわりをめぐるだけ。まわりを何度も何度もめぐることによって、いわば中心に思いをいたすなり、中心を感じ取るなりということはできるけれども、中心に入ることはできない。僕もそのように思っているわけです。
ユング自身、自分の書いている本も「サーカムアンビュレーション」が多いと言っている。たしかにぐるぐる回っているものが多いんですよ。だからぱーんと直接的にものを言うことが好きな人にとって、ユングの言い方は持って回っているというとか、うねうねやっているように見えてしまう。けれども僕がユングの考え方で好きなのは、やはり真ん中に行けないと思っているからなんですね。
中沢――そうですね。まわりをドーナツ状に、一種の比喩です。
河合――そう、そう。
中沢――すべて比喩で回転しつづけているけれども、その中心部には言葉の能力をもっては踏み込めない部分があるということなんでしょうね。
河合――おそらくぐるぐる回っているうちに体感としてはある、ということなんでしょう。その体験をしっかりと把握できるというのが密教になるのかな。
中沢――むずかしいところですね、「密教」と言ってしまうと問題を極端に狭めてしまう感じがする。じゃあ、たとえばハイデッガーが「存在」とか言うじゃないですか。「在る」とか。あれは言ってみれば真ん中のすぱんと抜けたところを「在る」と言っているわけですよね。
河合――そうです。
中沢――ところがわれわれは「存在」ではなくて「存在者」だから、まわりをぐるぐる回っているに過ぎないものなのに、中心部には「在るが在る」というふうに彼は言うわけですね。何でそのことにみんな驚かないのかと。別にヨガをやっているわけでもない、哲学者なんですよ。そういう人間が「在る」と言って、みんなそれを平然と受け入れてハイデッガー哲学についていく。実はかなり神秘的なことがやられています。
河合――そうですね。
中沢――おそらくハイデッガーの哲学は、東洋へ持ってくると、密教と同じようなことを言っているという認識になると思うんです。神秘に関わることを「在る」と表現しているだけで。「私」はその「在る」の中心部にいる。彼は踏み込む。そこからいろいろな言葉が紡ぎ出されてくる。その中心点から、あの独特の言葉と思考がつぎつぎと湧き出てくる。
あるいは「言葉にならないものは沈黙しなさい」というヴィトゲンシュタインのような哲学者もいる。われわれのできることはせいぜい言葉でまわりをめぐることで、中心の言葉にならない領域に関してはもう「黙れ」と。そのとき、ヴィトゲンシュタインはどこにいるのでしょう。彼の心は、この中心にいます。ただ、そこについては黙ろうとしている。黙らなくてはいけないという認識をもたらすものがある。これは河合先生がおっしゃったように、まわりをめぐっているうちに「何かここの触りますな」みたいなものですけれども。
ですから、これを見極めるには、なかなかテクニックが要ります。「この人は本当にそういうところに触れているのか、触れていないのか」がある程度わかります。密教では、中心部に抜け出ていって「ここからすべてを語り出すことができます」という哲学をつくっているけれども、ただ、言葉のほうにスタンスを移した場合、人間の意識は言葉がつくるものですから、「その言葉によってとらえられないようなものは、人間の意識には上ってこない。だから全部沈黙しなさい」というヴィトゲンシュタインとは、本当に微妙なところで背中合わせになっているんだと思います。
あらゆるものを「否定」していく精神の運動と、それから親鸞のような大肯定の精神は背中合わせです。何しろ『大日経』では、大日如来ご自身がしゃべり出すわけですから。
河合――華厳経』ではしゃべらないですもんね。あれは感激したなあ。もう徹頭徹尾、最後までしゃべらへん。
中沢――あれはむしろヴィトゲンシュタインですよね。