じじぃの「人の生きざま_798_中村・哲(医師)」

Hero's farewell for Japanese doctor - BBC News

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=dWvwrJJ9nJo

Japan doctor Tetsu Nakamura

中村哲 (医師)

ウィキペディアWikipedia) より
中村哲(1946年9月15日 - 2019年12月4日)は、日本の医師。
ペシャワール会現地代表、ピース・ジャパン・メディカル・サービス(PMS)総院長。
アフガニスタンではカカ・ムラド(ムラドのおじさん)、カカムラとも呼ばれる。
1973年に九州大学医学部を卒業。医師免許取得後国内病院勤務ののち、1984年、パキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任。以来、20年以上にわたってハンセン病を中心とする医療活動に従事する。登山と昆虫採集が趣味で、1978年には7000m峰ティリチミール登山隊に帯同医師として参加した。
パキスタンアフガニスタン地域で長く活動してきたが、パキスタン国内では政府の圧力で活動の継続が困難になったとして、以後はアフガニスタンに現地拠点を移して活動を続ける意思を示している。
2003年にマグサイサイ賞を受賞した。2004年には、皇居に招かれ明仁天皇美智子皇后紀宮清子内親王(いずれも当時)へアフガニスタンの現況報告を行った。同年、第14回イーハトーブ賞受賞。
2008年には参議院外交防衛委員会で、参考人としてアフガニスタン情勢を語っている。また、天皇陛下御在位20年記念式典 にも明仁天皇美智子皇后が関心を持つ分野に縁のある代表者の一人として紹介され列席している。
2016年、現地人が自分で用水路を作れるように、学校を準備中。住民の要望によりモスク(イスラム教の礼拝堂)やマドラサイスラム教の教育施設)を建設。旭日双光章受章。2018年、アフガニスタンの国家勲章を受章した。
2019年10月7日、アフガニスタンでの長年の活動が認められ、同国の名誉市民権を授与された。
2019年12月4日、アフガニスタンの東部ナンガルハル州の州都ジャラーラーバードにおいて、車で移動中に何者かに銃撃を受け、右胸に一発被弾した。負傷後、現地の病院に搬送された際には意識があったが、さらなる治療の為にパルヴァーン州バグラームにあるアメリカ軍のバグラム空軍基地へ搬送される途中で死亡した。

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羽鳥慎一モーニングショー

2019年12月12日 テレビ朝日
【司会】羽鳥慎一斎藤ちはる 【コメンテーター】玉川徹、高木美保(タレント)
中村哲告別式 上皇ご夫妻から弔意
昨日、アフガニスタンで殺害された中村哲医師の告別式が営まれ、1300人超の人が参列した(福岡市)。
祭壇には、中村哲氏の遺影、棺にはアフガニスタンの国旗がかけられていた。
中村哲氏は30年以上アフガニスタンで奮闘、医師という立場を超えて井戸や用水路の建設にも従事した。
アフガニスタン・ガニ大統領は首都・カブールで行われた追悼式典で、
「この国を強くすることに一生を捧げた偉大な人」
と弔辞を述べ、自ら中村哲氏の棺を担いだ。
上皇ご夫妻からも弔意が寄せられた。
1971年、上皇ご夫妻は皇太子時代にアフガニスタンバーミヤン石仏像を訪問された。
中村哲氏と上皇ご夫妻との交流は15年に及ぶという。

中村哲医師と上皇ご夫妻

中村哲氏は「私たちの仕事を理解していただいたことは大きな励みとなってきた。これからも見守っていただけるとありがたい」と語った。
高木美保、「私も中村さんから大きな影響を受けた一人です。お医者さんをやりながら水路を20km以上造った方なんです。農業をやれば戦争をしないですむという考えなんです」
玉川徹、「息子さんが自分のことを思うより人のことを思う方と言っていた。医師ということも井戸を掘るということもその延長にあるのかもしれない。私たちは自分さえ良ければ、自分の国さえ良ければ、という考えから拡張できない。中村さんは国を超えて拡張できる人なのですごく尊敬できる。もしかしたら、自分のことより人のことというのは上皇陛下と相通じるものがあったのかもしれない」
https://www.tv-asahi.co.jp/m-show/

クローズアップ現代+ 「中村哲 貫いた志」

2019年12月10日 NHK
【司会】武田真一 【ゲスト】田中浩一郎(慶應大大学院 教授)、蓮岡修(アフガニスタンで4年に渡り中村さんと活動)
アフガニスタンで銃撃され亡くなった中村哲医師。ソ連による侵攻、激しい内戦、アメリカなどによる空爆、そして相次ぐテロと、大国や国際情勢に振り回され続けてきたアフガニスタンにあって自らの信念に基づき翻弄される人々を救う活動をしてきた。
当初は診療所を開いたものの「背景にある貧困解決が不可欠だ」と医療支援から干ばつや貧困対策へと移行。近年は治安が悪化し、支援団体が次々と撤退する中でも「現地から本当のニーズを提言していく」と現地での活動を続けてきた。
貴重な記録や関係者へのインタビューも交えて、中村哲医師が貫いた信念を見つめる。
●20年あまりの映像 手記からたどる
中村哲の信念とはどのようなものだったのか。
20年あまりにわたって記録された映像や中村が残した膨大な手記には、テロを力でねじ伏せるという大国の論理にあらがう一貫した志が刻まれていた。
福岡市のNGOペシャワール会」2006年会報より。
2008年には活動を共にしていた若者が武装グループに殺害される。
中村はその死に対し、自分なりの責任を果たし続けていた。
●“武力ではテロはなくならない”
2001年の米国同時多発テロ事件。
中村哲はその後一貫して武力によるテロとの戦いに疑問を投げかけてきた。
米国などが、オサマビンラディン容疑者が潜伏しているとしてアフガニスタンに攻撃を仕掛ける。
「医者、用水路を拓く」より。
当初、現地で診療所を開設するなど医療支援を行ってきた中村。
しかし、自らの力の限界を知ることになる。
干ばつにより水不足が深刻化し、多くの子供たちが命を落としていた。
中村は武力ではテロは断ち切れない、その背景にある貧困の問題を解決しなければならないと考えていた。
2003年、中村は貧困問題を解決しようと新たな活動を始める。
アフガニスタン・クナール川の水を引き込む用水路を作ることにした。
当時作業に加わっていた山口敦史を取材。
タリバンの元戦闘員や米国軍に雇われていた人たちが協力するようになってきた。
ペシャワール会会報より。
米国はアフガニスタンへの空爆を継続。
誤爆も相次ぎ、民間人の死者が急増する。
一方、タリバンは爆弾テロなどで対抗。
治安は一段と悪化していった。
日本はインド洋で海上自衛隊による給油活動を行っていた。
●“いま戦争をしている暇はない”
テロとの戦いが長期化する中で、中村哲が過去最悪というほど現地の治安は悪化していった。
2011年5月、米国は同時多発テロの首謀者・オサマビンラディン容疑者の潜伏先を襲撃し、殺害した。
2014年12月、アフガニスタンの治安維持などにあたってきた米国軍を中心とする国際部隊の大部分が撤退した。
その後アフガニスタンではタリバンが勢力を盛り返し、過激派組織「IS」の地域組織も台頭。
軍の施設や政府機関を狙ったテロなどが繰り返し発生し、民間人の死傷者は年間1万人を超えるようになった。
ことし10月に取材した際の中村は安全管理に細心の注意を払わなければいけなくなっていた。
中村は先週、武装した何者かに銃撃され命を落とした。
その日も作業現場に向かう途中だった。
●引き継がれる中村の“志”
ことし10月には、アフガニスタン政府から外国人として初めて名誉国民の表彰も受けている。
中村哲の用水路の建設に携わってきた男性、「彼の仕事で村には道ができ、人々は戻ってきたのです。私たちの暮らしは大きく変わったのです」
畑で手入れをしていた男性、「私はとても悔しく悲しいです。彼にはとてもお世話になりました。残った仕事を自分たちで進めていきたいと思います」
自分の畑に水が来るようになり、ことしの農業を再開することができた。
生前、中村は自分がいなくても用水路の建設が進められるよう、専門知識を持つ人材の育成に乗り出していた。
去年、職業訓練校を設立し1000人以上が参加した。

中村哲、「何もない砂漠でも、花を咲かせることができます。あなた方がいい技術者に育てば成功は早いでしょう」

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4361/index.html?1575859557