じじぃの「追悼・中村哲医師・農業復活こそがアフガニスタン復興の礎・貫いた志!クローズアップ現代」

アフガニスタン 永久支援のために 中村哲 次世代へのプロジェクト(2)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=gKGsnIXUzMk

中村医師とPMS現地職員

クローズアップ現代+ 「中村哲 貫いた志」

2019年12月10日 NHK
【司会】武田真一 (キャスター) 【ゲスト】田中浩一郎(慶應大大学院 教授)、蓮岡修(アフガニスタンで4年に渡り中村さんと活動)
アフガニスタンで銃撃され亡くなった中村哲医師。ソ連による侵攻、激しい内戦、アメリカなどによる空爆、そして相次ぐテロと、大国や国際情勢に振り回され続けてきたアフガニスタンにあって自らの信念に基づき翻弄される人々を救う活動をしてきた。
当初は診療所を開いたものの「背景にある貧困解決が不可欠だ」と医療支援から干ばつや貧困対策へと移行。近年は治安が悪化し、支援団体が次々と撤退する中でも「現地から本当のニーズを提言していく」と現地での活動を続けてきた。
貴重な記録や関係者へのインタビューも交えて、中村哲医師が貫いた信念を見つめる。
以下、JCCのウェブページから抜粋しています。
●20年あまりの映像・手記からたどる…
中村哲の信念とはどのようなものだったのか。
20年あまりにわたって記録された映像や中村が残した膨大な手記には、テロを力でねじ伏せるという大国の論理にあらがう一貫した志が刻まれていた。
福岡市のNGOペシャワール会」2006年会報より。
2008年には活動を共にしていた若者が武装グループに殺害される。
中村はその死に対し、自分なりの責任を果たし続けていた。
●“武力ではテロはなくならない”
2001年の米国同時多発テロ事件。
中村哲はその後一貫して武力によるテロとの戦いに疑問を投げかけてきた。
米国などが、オサマビンラディン容疑者が潜伏しているとしてアフガニスタンに攻撃を仕掛ける。
「医者、用水路を拓く」より。
当初、現地で診療所を開設するなど医療支援を行ってきた中村。
しかし、自らの力の限界を知ることになる。
干ばつにより水不足が深刻化し、多くの子供たちが命を落としていた。
中村は武力ではテロは断ち切れない、その背景にある貧困の問題を解決しなければならないと考えていた。
2003年、中村は貧困問題を解決しようと新たな活動を始める。
アフガニスタン・クナール川の水を引き込む用水路を作ることにした。
当時作業に加わっていた山口敦史を取材。
タリバンの元戦闘員や米国軍に雇われていた人たちが協力するようになってきた。
ペシャワール会会報より。
米国はアフガニスタンへの空爆を継続。
誤爆も相次ぎ、民間人の死者が急増する。
一方、タリバンは爆弾テロなどで対抗。
治安は一段と悪化していった。
日本はインド洋で海上自衛隊による給油活動を行っていた。
●“仲間の死”それでも続けた活動
2008年8月、中村哲にとって衝撃的な事件が起きる。
5年にわたり活動を共にしてきた仲間を武装グループに殺害された。
伊藤和也(31歳)は2001年の同時多発テロ事件をきっかけに、中村の志に共感し活動に加わっていた。
アフガニスタンの大地とともに伊藤和也遺稿追悼文集」より。
和也の両親を取材。
中村は事件の後もアフガニスタンに残った。
現地のスタッフとともに用水路の完成を急ぎ、工事は最終段階に入った。
一方、米国はアフガニスタンへの兵力の増強を打ち出す。
ペシャワール会会報より。
2010年、総延長25.5kmの用水路が完成した。
中村は用水路が見える農場に和也の功績をたたえる碑を建てた。
●“いま戦争をしている暇はない”
テロとの戦いが長期化する中で、中村哲が過去最悪というほど現地の治安は悪化していった。
2011年5月、米国は同時多発テロの首謀者・オサマビンラディン容疑者の潜伏先を襲撃し、殺害した。
2014年12月、アフガニスタンの治安維持などにあたってきた米国軍を中心とする国際部隊の大部分が撤退した。
その後アフガニスタンではタリバンが勢力を盛り返し、過激派組織「IS」の地域組織も台頭。
軍の施設や政府機関を狙ったテロなどが繰り返し発生し、民間人の死傷者は年間1万人を超えるようになった。
ことし10月に取材した際の中村は安全管理に細心の注意を払わなければいけなくなっていた。
中村は先週、武装した何者かに銃撃され命を落とした。
その日も作業現場に向かう途中だった。
●引き継がれる中村の“志”
ことし10月には、アフガニスタン政府から外国人として初めて名誉国民の表彰も受けている。
中村哲の用水路の建設に携わってきた男性、「彼の仕事で村には道ができ、人々は戻ってきたのです。私たちの暮らしは大きく変わったのです」
畑で手入れをしていた男性、「私はとても悔しく悲しいです。彼にはとてもお世話になりました。残った仕事を自分たちで進めていきたいと思います」
自分の畑に水が来るようになり、ことしの農業を再開することができた。
生前、中村は自分がいなくても用水路の建設が進められるよう、専門知識を持つ人材の育成に乗り出していた。
去年、職業訓練校を設立し1000人以上が参加した。
中村哲、「何もない砂漠でも、花を咲かせることができます。あなた方がいい技術者に育てば成功は早いでしょう」
https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4361/index.html?1575859557