じじぃの「歴史・思想_92_世界史を変えた指導者・マザー・テレサ」

Story of Mother Teresa | Saint Teresa of Calcutta | English | Story of Saints

動画 YouTube
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Mother Teresa

『図説 世界史を変えた50の指導者』

チャールズ・フィリップス/著、月谷真紀/訳 原書房 2016年発行

マザー・テレサ コルカタのスラムに心をよせたノーベル平和賞受賞者

病人、死にゆく人々への奉仕活動で1979年にノーベル賞を受賞したマザー・テレサは、深い思いやりと強い意志をかねそなえていた。神の愛の宣教者会の設立と維持、学校やハンセン病者のための施設、「もっとも貧しい人々」のためのホスピスの開設という活動のなかで、彼女は信念につき動かされた無私の行動の力を示した。

1946年9月10日、アルバニア生まれでインドの修道院付属学校の教職として働いていた修道女シスター・テレサは、人生を変える体験をした。修道院を出て貧しい人々のなかで暮らしながら彼らを助けるようにという、神のよびかけを感じたのである。「あれは命令でした」とマザー・テレサはその体験をふりかえった。
1948年にマザー・テレサは仕事に着手する。まずは基礎的な医療訓練を受け、それからコルカタのスラム街に身を投じた。修道衣を脱いで青い線の入った白地の質素な木綿のサリーを着るようになり、このサリーがやがて、彼女の修道会、神の愛の宣教者会の制服になった。
1949年の初めに、最初の弟子たちがくわわった。みなで路上で食べ物や生活物資のほどこしを求めなければならなかった。貧困がどれほどつらいものかを身をもって体験したマザー・テレサは、日記にこう書いている。「あの人たちがどれほど体と魂に痛みが感じながら、家を、食べ物を、健康を求めているかを思った」。比較的快適な修道院に戻りたいという誘惑にかられながらも、マザー・テレサはあらゆる信念から、ふみとどまることを選んだ。「一粒の涙も出るのを許しませんでした」。地元の自治体からマザー・テレサは元巡礼者用の簡易宿泊所だった建物をゆずり受け、活動拠点として使うようになった。
最初の数ヵ月から数年のあいだ、マザー・テレサは新しい事業を立ち上げて軌道にのせる者にたびたび必要になる、なにものをはねのけるような自分を信じる心と内面の強さを見せた。この困難な時期に、成長途上のリーダーは自分が築こうとしているプロジェクトを継続するにたるだけの熱意を感じているかどうか、見きわめなければならない。マザー・テレサはそうした。彼女の熱い思いはイエスと貧しい人々に捧げられていた。マザー・テレサの思いやりは覚悟に裏打ちされており、それは数十年にわたって彼女のリーダーシップの特徴となる。この信念の強さが、彼女を偉業に導いたのだった。
1950年10月7日、マザー・テレサは「飢えた人、裸の人、家のない人、障害のある人、目の見えない人、ハンセン病の人、社会全体から求められていない、愛されていない、気にもかけられていないと感じているすべての人々、社会のお荷物となってだれからも避けられて人々」の世話をするという使命を掲げた修道会の設立許可を教皇から得た。1952年に、死を待つ人々のために最初のホスピス、「ニルマル・ヒリダイ(清い心の家)」をコルカタに開設した。極貧の人々や病人の世話をするときと同じく、ここでもマザー・テレサが重視したのは、人としての尊厳だった。ホスピスでは、キリスト教イスラム教、ヒンズー教とさまざまな信仰をもつ人々が、自分の宗教のしきたりを守ることができた。ホスピスは「動物のように生きてきた人々が、天使のように――愛され、求められて――逝く場所なのです」とは、マザー・テレサの言葉である。
神の愛の宣教者会が大きくなると、マザー・テレサは新たな事業にも取り組み、ハンセン病患者の療養施設「シャンティ・ナガル(平和の家)」といくつかのハンセン病の診療所、そして孤児院「ニルマラ・シシュ・バヴァン(聖なる子どもの家)」を開設した。テレサの活動は、イエスアッシジ聖フランシスコの思いやりに満ちた姿勢に影響を受けている。聖フランシスコ自身も、ハンセン病患者と貧しい人々に献身的につくした。さらにテレサは、活動をコルカタからインド全土に、そして全世界に広げていった。修道会はヨーロッパ、アフリカ、アメリカの多数の国に施設を開設した。