じじぃの「人の死にざま_1547_ベネディクトゥス(修道制度の創設者)」

スビアコの鐘 la campana di Sbiaco 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cdALRhVtc1o
スビアコ修道院

ベネディクトゥス コトバンク より
ベネディクトゥス[ヌルシアの](Benedictus 480ころ‐550ころ)
西欧修道制の創設者、聖人。生涯についてはよく知られていない。イタリア中部、スポレトに近いヌルシアNursiaの名門の家に生まれ、500年ころ法律を学ぶためにローマに赴いたが、この古都の退廃に衝撃を受けて隠修士となり、最初はアフィレ、次いでスビアコの洞窟で修行した。また彼のもとに集まった修道士のために付近に12の修道院を建ててその指導に当たった。529年ころモンテ・カッシノ(モンテ・カッシノ修道院)に移り、以後ここを離れず、晩年の534年以後、彼の唯一の著作〈ベネディクトゥス会則〉を執筆した。

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『歴史随想パッチワーク』 犬養道子/著 中央公論新社 2008年発行
洞窟からテゼへ (一部抜粋しています)
西暦522年のある日、ひとりの壮者がその黄色い門をくぐって行った。彼の足の向く先はスビアコの中ではなかった。渓谷めがけて途中から折れるそま道をいきなり阻む、巨大な岩または岩の間にぱっくりと口を開けている洞穴の奥だった。そこに3年。
その人の名はベネディクトス。中部イタリアのウムブリア地方出身。
洞穴とは言うものの、入ってみれば内部の広さ明るさに驚かされる。私がはじめてそこを訪れたのは1957年の早春。雪をあちこちにのこす外とくらべれば内部はむしろ暖かく、外からも垣間見えていたものの。岩をくりぬいてつくられた窓の多さも、ひろがる奥にしつけられた数十の部屋も、意外であった。谷に向かう「棟」の反対側には、なんと、いくつかの大きな図書室。おびただしい蔵書。古書。現代の書物。楽譜。この中の一室において、はじめて近代的印刷による図書出版刊行がおこなわれたのは1469年、印刷機製造者は工学を学んだ修道士であった。
ここを居住に適する場として住みついた最初の人は、しかし、ベネディクトスではない。
キリストにつづこうとする初期教会の人々が、「日々を新た」に生きる間に立ち上がらせた、静修いちずの群のいくつかが先住者だった。このような人々は、東方トルコにもエジプトにも、2世紀終わりごろから少なくなかったが、4世紀半ばにバシレイオスと呼ばれる文豪・学問の人を得たとき、いわゆる隠遁とはちがう、生き生きとした共同生活ルールをつくられて、スビアコを含む各地にひろまり、人をひきつけはじめた歴史を持つ。
ベネディクトスは、だから、遁世の目的で洞穴に来たわけではない。バシレイオスの「修道ルール」の書物をたずさえ、それをつらぬく理念――キリストをみつめつつ、そのあとにしたがう人それぞれの才と能力にしたがい生かす、しかも一切の品々を共同・共有する生き方と理念を「ローマ帝国崩壊・蛮族多々と交わる新しい時代・6世紀という時代」にどう適応させるか、さえることができるのか、さらにはそのルールにしたがう共同体が社会一般にどう奉仕できるかを思いめぐらすめてに、来たのであった。
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なぜ、唐突にスビアコ洞窟に入って行ったベネディクトス(仏教読みではブノワ)を登場させたのか。なぜ、彼が、エジプトや東方にすでにあらわれ出ていた修道士――ひとりで静修にはげむ人々――の流れにある程度汲みつつも、カパドキア生まれのバシレイオスと呼ばれる(4世紀中葉)文筆・学問の人の編み上げた「共同・共住生活・修道ルール」を踏まえ且つ完成させた共住型修道生活にページを割くことにきめたのか。彼の編み上げたルールが、人間性の深い理解と洞察に富んでいる(いまなお生きつづける)からか。
もちろん、それらもあるけれど、彼ベネディクトスこそは「ヨーロッパの父」の称号を多くの人々からも、のちには教皇からも、極めて自然い与えられた人物だったからである。ヨーロッパの父――その通り。中庸の精神を基礎におくルール73章を彼が書き上げ、それにのっとる修道生活が野火のようにひろまって行ったとき、最も正確な意味でのヨーロッパ・ヨーロッパ精神文化・文化一般に強靭な生命力が吹き入れられたからである。
逆に言うなら、共住の修道生活が、ヨーロッパ形成の大きな一因となったからである。しかもその生命力はルッターなどの登場の激動期をも生きのび、体臭の多くが暴徒と化したフランス大革命すらも生きのびて、21世紀になろうとも衰えない。むしろ「日々若くなる」ものなのである。いま、21世紀、全世界にひろがって人類に奉仕しつづけるものなのである。