じじぃの「科学・芸術_937_ウェールズ・英語詩人」

And Death Shall Have No Dominion by Dylan Thomas - Poetry Reading

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eE74rOHKWrs

R. S. Thomas - Iago Prytherch lyrics

Iago Prytherch, forgive my naming you.
You are so far in your small fields
From the world's eye, sharpening your blade
On a cloud's edge, no one will tell you
How I made fun of you, or pitied either
Your long soliloquies, crouched at your slow
And patient surgery under the faint
November rays of the sun's lamp.
https://lyrics.az/r-s-thomas/-/iago-prytherch.html

ウェールズを知るための60章 吉賀憲夫(編著) 発行:明石書店

英国を構成する4つの「国」の1つウェールズ。最も早くイングランドに併合されたが独自性を保ち続け、英語と全く異なるウェールズ語を話せる若者も少なくない。アーサー王伝説のルーツを持ち、海苔を食すなど日本との意外な共通点もあるウェールズを生き生きと紹介する。
Ⅶ 伝説・文学・地誌・学術
第58章 ディラン・トマスとR・S・トマス――20世紀のウェールズを代表する英語詩人
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784750348650

ウェールズを知るための60章』

吉賀憲夫/編著 赤石書店 2019年発行

ディラン・トマスとR・S・トマス――20世紀のウェールズを代表する英語詩人

詩に関しては、ウェールズには長い伝統がある。ウェールズの人々は詩とともにあると言えるほどである。ドルイドが権威を持って活躍していた頃から、あるいはそれ以前から現代まで。2つの言葉を有する国であるがゆえに、ウェールズには詩にも2つの伝統があると言えるが、ここでは20世紀に英語で詩を書いたウェールズの詩人たちの中から、世界的な名声を博したディラン・トマスとR・S・トマスを取り上げる。
イギリス文壇におけるW・H・オーデン以降最大の詩人のひとりと称されるディラン・トマスは、スウォンジーのクムドンキン・ドライヴ5番地で生を享けた。英語教師であった彼の父親によって与えられた名は『マビノギオン』中の「波の息子」に由来する。1925年から31年までスウォンジー・グラマースクールで教育を受けたが、英語以外の科目には、一切興味を示さず、試験にひとつも合格しないまま卒業した。在学中には校内雑誌の編集を務め、卒業後は『サウス・ウェールズ・ポスト』紙に就職し、約1年間、校正係(のちに記者)として働いたが作家として身を立てるため退職した。
1933年、『サンデー・レフェリー』紙に「緑の導火線を通して花を駆り立てる力」が掲載され、高く評価された。これをもって彼は詩人としての第一歩を記したのである。1937年、キャトリン・マクナマラと結婚、彼は生涯にわたり経済的には恵まれていなかったが、創作活動にのみ力を注ぎ、過度なまでに飲酒したため、結婚後は一層困窮し、親戚や友人の援助により家計が成り立っているという有様であった。3人の子宝にも恵まれたが、一家の経済状態は悪化する一方で、転居を繰り返した。1947年、友人マーガレット・テイラーの援助により南ウェールズ・ラーンのボート小屋を改造した家に住むようになり、ここがトマスの終の住み家となった。彼の作品はアメリカでも高い評価を得ており、1950年にはアメリカ各地で詩の朗読と講演を行い、好評を博した。しかし、1953年、3回目のアメリカ講演旅行中、ニューヨークにて客死した。死因は長年にわたる過度な飲酒とも言われている。
彼の詩集は5冊出版されているが、最高作は1941年に上梓された『死と入口』であるとする声が多い。単一の詩作品としてウェールズで人気が高いのは、幼年時代を回想した「ファーン・ヒル」で、最後の2行はロンドンのウェストミンスター寺院のポエッツ・コーナーに刻まれている。またラジオ劇『ミルクウッドの下で』も多くの人に好まれており、詩も含めディランの最高傑作であるとする人さえいる。
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R・S・トマスは1913年、カーディフに生まれた。父親が船員であったため、一家はイギリス各地を転々としたが、1918年、北ウェールズのホリヘッドに落ち着いた。英語で教育を受けたとはいえ、自然豊かでウェールズ語話者の多いこの地で育ったことがトマスにとっては後に意味を持つことになったのかもしれない。1932年、彼は奨学金を得てバンゴール大学に入学、古典を学んだ。大学卒業後は、聖ミカエル大学で神学を学び、1936年、ウェールズ聖公会副牧師に任じられ、チャークに赴任した。ここで画家のミルドレッド・エルドリッジ(通称エルン)と知り合い、1940年に結婚。1942年には牧師に昇任され、1978年の退職までにいくつかの教区で奉職した。
彼は1946年に処女詩集『原野の石』を発表しており、牧師としての仕事を並行して執筆活動も精力的に行なっていたが、牧師退職後は執筆活動に専念した。彼の諸作品は高く評価され、多くの賞を得て、1996年にはノーベル文学賞にもノミネートされた。2000年、クリッキエスの近くのペントレヴェリンにて、心臓の病により87歳でトマスは他界した。看取ったのは2人目の妻エリザベスであった。
R・S・トマスは非常に多作家であり、詩集だけでも20冊以上を上梓している。テーマとしては政治的、精神的なものを扱うことが多いが、ウェールズに生まれ、30歳を過ぎてから苦労してウェールズ語を学ぶなどして、一層愛国的な傾向を強めていった牧師・詩人としては、それは極めて自然なものと言えるかもしれない。イングランドの圧政やそれに対するウェールズの奇妙な従順さに対する憤怒、人々の信仰心のあり方への疑問、自らの神との「対話」などが影響していたであろうことは想像に難しくない。
彼の作品の特徴のひとつは、厳しい自然の中に生きる素朴な農民の姿を描いたことである。出世作「ある農夫」に登場するイアーゴという名の農夫は、彼の作品のなかでたびたび歌われることになる。もうひとつの特徴は神の探求である。特に晩年の作品ではより形而上学的で、精神性の強いものとなっており、新たな神話の創成を目指しているさまが見て取れる。