じじぃの「歴史・思想_62_世界史大図鑑・フルシチョフ」

The history of the Cuban Missile Crisis - Matthew A. Jordan

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=bwWW3sbk4EU

Cuban missile crisis

Cuban missile crisis, (October 1962), major confrontation that brought the United States and the Soviet Union close to war over the presence of Soviet nuclear-armed missiles in Cuba.
https://www.britannica.com/event/Cuban-missile-crisis

『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

われわれはにらみ合いをつづけていたが、いま向こうがまばたきしたらしい キューバ・ミサイル危機(1962年)

1962年10月15日から28日までの13日間、世界は核による破壊の瀬戸際に揺れた。ソヴィエト連邦の指導者ニキータ・フルシチョフキューバ核兵器を配備したのを受けて、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディがその撤去を要求し、双方が核戦争の可能性があることを警告し合った。1950年代から、両超大国は膨大な量の核兵器を備蓄していた。相互確証破壊(MAD)の原則では、ソ連が西側を攻撃すれば、西側も確実に報復する。アメリカとキューバは相互協力の歴史を築いていたが、1959年1月1日にキューバ革命が起こり、参謀総長にフルヘンシオ・バティスタが大統領をつとめる政府をフィデル・カストロが覆したあと、状況が変わっていた。

通商停止措置

カストロ共産主義の傾向を示していたにもかかわらず、アメリカは彼を急場の支配者と認めた。キューバ経済においてアメリカは大きな存在だったが、カストロはその支配力を崩そうと、補償なしですべての産業を国有化しはじめた。これに対抗するため、アメリカは全面的な通商禁止措置をとり、カストロソ連に支援を求める。共産主義がひろがるのを恐れたアメリカはキューバ政府の転覆を試み、1961年4月に中央情報局(CIA)が支援するキューバ人の亡命者たちがピックス湾に侵攻したが、失敗に終わった。
1961年にはまた、核弾頭を搭載したジュピター・ミサイルを15機、アメリカがトルコに配備して、必要が生じればソ連を攻撃できるように準備を整えた。トルコはソ連と国境を接していたため、これはソ連領土への直接的脅威と見なされた。

最後通牒

フルシチョフは、断固とした姿勢で臨むようソ連の強硬派から圧力を受けるようになる。この圧力と、盟友キューバアメリカの攻撃から守りたいとの思いから、フルシチョフは核弾頭搭載可能のミサイルをキューバに配備した。1962年10月14日、U-2偵察機が撮影した写真に、ソ連が建設中の核兵器施設が写っていた。ケネディ政権の軍の参謀たちはすぐさまミサイル施設を攻撃するよう求めたが、ケネディはさらなるミサイルの設置を防ぐためにキューバ海上封鎖する策をとった。ケネディは、フルシチョフに撤退を要求する最後通牒を突きつけ、核戦争の可能性が差し迫っていることを世界に伝えた。一方でフルシチョフは、ソ連船舶の船長たちにそのままキューバの港へ向かうよう命じた。

膠着状態からの脱却

舞台裏で必死の外交がおこなわれ、膠着状態を破る取引が提案されるに至った。フルシチョフキューバにある核兵器をすべて撤去すれば、ケネディがトルコのミサイルを秘密裏に取り去ることに応じるという取引だ。フルシチョフはこれに合意したが、条件として、アメリカがキューバ侵攻の計画を中止することを求めた。
10月28日、フルシチョフは自国の船舶を引き返すよう命じ、危機は回避された。超大国はより慎重になり、核戦争の脅威は小さくなった。