【キューバ革命指導者】フィデル・カストロが残した言葉・名言集 動画 YouTube
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フィデル・カストロ
キューバ革命 コトバンク
1959年キューバに起った革命。指導者 F.カストロのもとほどなく社会主義化に向った。
52年大統領選挙に勝ちめなしとみた F.バティスタ・イ・サルディバル将軍がクーデターで樹立した政権に対し,カストロは武装蜂起を企て 53年7月 26日東部サンチアゴのモンカダ兵営を襲撃したが失敗した。 56年 12月カストロはメキシコで準備した反乱軍を率いて帰還,南東部マエストラ山脈中に拠点を確立し,やがて都市の学生や労働者と呼応しつつ農村に勢力を拡大,59年1月1日バティスタ政権を倒した。
革命臨時政府は農地改革および外国人資産の無補償での没収を実施,60年5月ソ連と国交を開くにいたって,7月アメリカは砂糖の輸入割当てを停止,61年1月国交を断絶した。4月 17日亡命キューバ人によるコチノス湾侵攻 (→コチノス湾侵攻事件) を撃退すると,カストロはこの年のメーデーにキューバを社会主義国と宣言,12月マルクス=レーニン主義者をもって自任した。
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『知られざるキューバ 外交官が見たキューバのリアル』 渡邉優/著 ベレ出版 2018年発行
はじめに より
キューバは不思議な国です。
キューバをこよなく愛する人々は世界中に大勢います。何が魅力的なのでしょうか。15世紀にキューバを「発見」したコロンブスは、この島を「これまでに人類が見た中で最も美しい島」であると評しました。19世紀初頭に多くの中南米諸国が独立を遂げた際にもスペインはキューバを手放さず、同世紀末の米西戦争まで、4世紀にわたって死守しました。フィデル・カストロとラウル・カストロの父親アンヘルはスペイン軍人としてキューバ独立勢力と戦うためにキューバに派遣され、帰国後にキューバに戻ってきました。アンヘルのように多くのスペイン人がキューバに惹きつけられて移り住んだのです。
1959年のキューバ革命後はどうでしょうか。革命政府は一転して共産主義国家となり、その体制には毀誉褒貶があるものの、依然として世界中にキューバ・ファンが多くいます。2017年にキューバを訪れた外国人の数は460万人に達しました。キューバ革命後は実に110万人ものキューバ人が米国に亡命し米国人となったのに、いまだに「私はキューバ人だ」という人がたくさんいます。捨てたはずの祖国を忘れられないのです。
フィデル・カストロ語録 より
その昔、中華人民共和国の方々や外国の中国研究家達にとって毛沢東語録が必読書と言われた時期がありました。1949年の政変の立役者の言葉ですから、儒者にとっての論語のように神聖なものだったのでしょう。今では彼の国の方と話していても、毛沢東語録が話題になることはありません。
一方キューバでは1959年革命の主役フィデル・カストロ前国家評議会議長の言葉は今でも頻繁に目にします。フィデル・カストロ語録を本気でまとめようとすると一生かかってもおわらないので、今回は私の好みで選んだ「フィデル10選」をご紹介します(和訳は著者の勝手訳です)。
1 私を断罪せよ。それはどうでもよいことだ。歴史は私に無罪を宣言するだろう。
2 私の髭は祖国にとって多くのことを表している。良き統治の約束をすべて果たした時には髭を剃るつもりだ。
3 祖国か死か 勝利あるのみ。
4 この革命は貧者の、貧者とともにする、貧者のための社会主義的、民主主義的な革命である。
5 革命こそすべてがある。反革命にはなにもない。
6 人は逝く、しかし共産党は不滅だ。
7 世界の諸問題が核兵器によって解決されるという幻想は、もういい加減にしてくれ。(核)爆弾は腹をすかせた人々や病人や無辜の民を殺すことができるが、空腹や病気や無知をなくすことはできない。
8 我々は歴史上最も困難な時期にある。(米)帝国を前に、一人ぼっちになってしまった。
9 革命とは、変革されるべきものすべてを変革することである。
10 キューバは耐えてきたし、これからも耐えていく。決して施しを乞うことはない
キューバの人達はフィデルの言葉をよく覚えていますから、キューバ人と話す機会があったら、引用してはどうでしょうか。距離感が縮まりますよ。