じじぃの「歴史・思想_45_アインシュタインの旅行日記・この旅行の背景」

アインシュタインの日本講演旅行記 来日から東日本各地まで

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=KbmvhWWZuHE

アインシュタインの旅行日記 日本・パレスチナ・スペイン Amazon

2019/6/18 ゼエブ ローゼンクランツ (編集)
本書はアインシュタインが備忘録としてや、義理の娘たちに読ませるためにつけていた日記をまとめたものだ。毎日、見たもの、聞いたものをまめに記録しているが、一般に公表する予定はなかったとのことで、発見された際はその毒舌ぶりが物議をかもした。
日本・パレスチナ・スペインについての旅行記で、日本の前にはシンガポールや中国にも寄っているのだが、日本に到着するなり、毒説が鳴りを潜めて絶賛に変わる。
時代は1922年。大正デモクラシーのころで、関東大震災の1年前。来日中は毎日さまざまな感動の連続で、リラックスしていてとても楽しそうだ(たまに「妻と妙に意見が食い違う」「妻が激怒」などとあって何があったのかと思わされるが)。
また、本書には日記以外にも付録が充実していて、講演原稿や土井晩翠等日本人との手紙のやりとりや、日本の改造社からのアインシュタインへの招聘依頼状などもそのまま載っていて面白い(どこどこで何回講演をお願いしたく、半金をロンドンの銀行を通して送金するがキャンセルの場合は云々してほしいなど。いわば外タレの招聘だが、必要事項が簡潔に記された手紙だ。こうしたものが原点で、その後、保険やら何やらといろいろ複雑化していって、いまにいたるのだろう)。
自分の子供たちに「ノーベル賞をとることになった!」と報告した手紙も載っているが、それはちょうど京都に滞在していたころで、その中でも、自分は今までに会ったどの民族よりも日本人を気に入っていて、日本人は「物静かで、謙虚で、知的で、芸術的センスがあって、思いやりがあって、外見にとらわれず、責任感がある」と述べている。

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アインシュタインの旅行日記 - 日本・パレスチナ・スペイン - アルバート・アインシュタイン

アルバート・アインシュタイン/著、Z・ローゼンクランツ/編、畔上司 /訳 草思社 2019年発行

この旅行の背景 より

アインシュタインが極東、パレスチナそしてスペインへの旅に行く気になったのは、結局のところ、改造社(東京)の社長山本実彦がきっかけを作った。とはいえ、招聘にまつわる詳細についてはさまざまな経緯があった。
アインシュタイン訪問の12年後に山本が回想したところによると、アインシュタイン招聘は、1919年から21年にかけて日本において「イデオロギーの急変が生じた」さなかの時期に出くわした。その変化の顕著な兆候としては、改造社が日本のキリスト教平和主義者・労働運動家賀川豊彦の小説1作を刊行したことが挙げられる。その小説が大ベストセラーになったので、アインシュタインやその他の知識人、たとえばジョン・デューイバートランド・ラッセル、マーガレット・サンガーといった人たちを日本へ招聘する資金ができたのだ。
ラッセルは東京で山本から、世界の偉人を3人挙げてほしいと尋ねられたとき、こう答えたという。「まずはアインシュタインです。次がレーニン。ほかにはいません」。山本自身の文章によると彼は、相対性理論のことを哲学者西田幾太郎と科学ジャーナリストで元物理学教授の石原純に相談した結果、約2万米ドルをアインシュタイン訪問に割り振ると決め、改造社のヨーロッパ特派員だった室伏高信をベルリンのアインシュタインのもとに派遣して条件交渉をした。だが石原によれば、山本はラッセル訪日の9ヵ月ほど前に西田と石原に相談していたという。
また別の話によれば、改造社の編集者である横関愛造は、改造社アインシュタインを招聘しても「いったい何をすればいいかわからないだろう」と言っていたという。彼らは東京の物理学者である長岡半太郎に相談した。長岡はアインシュタイン招聘はいいことだと推薦し、日本の大学自体には、日本の学生を海外派遣したりアインシュタインを日本に招聘したりする資金はないと述べた。
いずれにしても、初の招聘に関しては次に述べるようないささか話がもつれたようだ。1921年9月末、石原はアインシュタインに対して、『改造』誌を代表して、1万円(1300英国ポンド)の報酬で1ヵ月の訪日を招聘した。だがちょうどそのころ、同じく『改造』誌代表して室伏高信がアインシュタインのもとを訪れ、講演旅行と旅費を含めて2000英国ポンドを提示し3ヵ月の訪問を招聘しようとしていた。
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1922年3月なかば、アインシュタインは、親友にして同僚のパウル・エーレンフェストに「東アジアから聞こえてくるサイレンには抵抗できないよ」と白状している。その直後、アインシュタインは石原に手紙を書き、訪日の出発計画は1ヵ月遅れるが、それは9月にライプチヒで開催されるドイツ科学者・物理学者教会の年次大会への要請されているからだと伝えた。
8月までに日本の帝国学士院はアインシュタイン歓迎の決議を可決し、日本政府は「友好的な歓迎」の準備に入った。ところが東京帝国大学で長岡の弟子の一人だった土井不曇が相対性理論を強く批判する内容の手紙を書き、そのなかで、誰も彼もがアインシュタインを熱狂的に歓待するわけではないと伝えた。土井はアインシュタインに対してこう勧めていたのである。「オーソドックスな説に戻りなさい。あなたが26歳という若いときから長時間にわたって陥っている有害な魔法から解き放たれなさい」
招聘交渉のあいだにアインシュタインは、「東京への招聘を私は非常に喜んだ。なぜなら、私は長いあいだ、極東の人々と文化に関心を抱いていたからだ」と、極東旅行に対する希望の一端を明かしている。日本到着から3週間経過した時点でアインシュタインは、それまでに受けた印象を文章に書き、訪日前の経過を振り返って招聘受託の理由をこう記している。
「日本への招聘が山本から届いたときには、私は即座に、何ヵ月もかかる大旅行を決心しました。もし私が、日本を自分の目で見るというこの機会を逸したならば自分で自分が絶対に許せなくなる、という以外に理由はありませんでした。[……]わが国では、日本ほど神秘のヴェールに包まれている国はないからです」