じじぃの「科学・芸術_874_しんかい6500・海洋酸性化」

暁新世ー始新世境界温暖化極大(PETM)

『深海――極限の世界 生命と地球の謎に迫る』

藤倉克則、木村純一/著、海洋研究開発機構/協力 ブルーバックス 2019年発行

人類と深海 海洋酸性化と深層循環 より

その”事変”は今からさかのぼることおよそ5600万年前、ちょうど暁新世(ぎょうしんせい)と始新世(ししんせい)とよばれる地質時代の境界付近で起りました。この時期は新生代のなかでももっと気温が高かった時代として知られ、地質学では暁新世ー始新世境界温暖化極大(Paleocene-Eocene Thermal Maximum)、略してPETMとよばれています(図.画像参照)。
この時期はその前後に比べ突出して高い年間平均気温が記録されており、堆積物の化学分析から、この時期には海水温もそれ以前より約4~7℃も上昇したことがわかっています。これはおよそ4500~6800Gt(ギガトン)もの炭素が大気中に放出されたことに相当します。この一連の現象の継続時間は、解析方法によって幅がありますが、開始から終了までおよそ10万年から25万年の間継続したようです。私たちの感覚では長い時間がかっているように思えますが、地球の歴史の中で見れば一瞬のうちに起こったようなものです。
なぜこの時期に気温が急激に上昇したのかははっきりとはわかっていませんが、海底から放出された大量のメタンガスの酸化か、巨大な火山活動による地球内部からの二酸化炭素放出のためではないかといわれています。
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PETMの海洋酸性化および温暖化事変は、その後いかにして回復したのでしょうか。これには深層水とその循環が大きな役割を担ったと考えられています。

深海を流れる深層水には熱と物質が運ぶ重要な働きがあります。深層海流は、冷たく、塩分が高く、密度が高い表層水が深層に沈み込む地域を起点に発生します。現在では北大西洋グリーンランド沖、もう1つは南極沖に2ヵ所を起点に世界の深層循環が形成されています。グリーンランド沖の深層水は大西洋を南下し、最終的に太平洋に流入します。そして深層水の終着点となる北太平洋カリフォルニア沖で表層に浮湧き上がり、その後表層の海流として北大西洋に戻ってゆきます。この海洋循環の仕組みを「熱塩循環」とよんでいます。
PETM当時の海洋でも、正確な経理は不明ながら現在と似たような海洋循環があったことがわかっています。当時の酸性化した表層海水は、海洋循環により深海に運ばれ、深海に生息していた石灰化生物や体積していたプランクトンの死骸など膨大な量の炭酸カルシウムを海水に溶解させてたのです。言い換えると酸性側傾いた海水を、炭酸カルシウムを溶かすことで、もとのアルカリ性側に戻すはたらき、といえるでしょう。十分な炭酸カルシウムを溶かした深層水は数千年ののち、湧昇流などによって海洋表層にもたらされ、再び大気と接触しますが、アルカリ性側にふれた海水は大気中の二酸化炭素を溶かし込む能力をすでに獲得しているため、大気中の二酸化炭素をさらに取り込んでいったと考えられます。このような循環がおよそ20万年続くことで、大気や海洋全体の二酸化炭素濃度は徐々に現象していったと考えられます。この間には、一旦低下した植物プランクトンの生産量が回復したり、温暖な気候によって大陸土壌の風化が促進され炭酸カルシウムが海洋中にもたらされたりすることによる中和作用なども加わり、上昇した待機二酸化炭素濃度を減少させる一助となったようです。
PETMに急激に起こった海洋酸性化は、かくして元の状態に回復しました。しかし、PETM以前に存在していた生物の一部は消滅し、戻りませんでした。残された生物はその形や生態を変え、進化することで新たな環境に適応することで生き延びたのです。
それではこれから起こる海洋酸性化に生物は適応できると安心してよいのでしょうか。それは早計のようです。大事な点はPETMの大気中の二酸化炭素の増加速度は、現在よりもはるかに遅い、ということです。PETM時代に放出された二酸化炭素の総量は現在と似ていても、それは何万年という時間をかけて起こりました。一方、現在の二酸化炭素の増加は、産業革命以降、200年もたたないうちに起こっています。生物が適応するための時間があまりにも短すぎるため、多くの生物が絶滅する可能性は大いにあるといえます。