じじぃの「歴史・思想_40_パリとカフェ・シャンゼリゼ通り」

Joe Dassin Champs Elysees Lyrics

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=d9V-zUlrhEE

『パリとカフェの歴史』

ジェラール・ルタイユール/著、広野和美、河野彩/訳 原書房 2018年発行

「大ボラ」の時代 より

モンパルナスから離れ、アルマ橋を通ってセーヌ川を渡ってみよう。セーヌ川を渡るなら1910年の反乱の話は避けて通れない。この年には有名なズアーヴ兵、アンドレ=ルイ・ゴディの彫像のあごひげまで水につかった[アルマ橋の上流側にはズアーヴ兵の彫刻があり、水位をはかる目安になっている]。ナポレオン3世は閲覧式でグラヴリーヌ出身の北フランス出身のゴディという兵を見てその毅然とした表情に惹かれ、彫刻家のディボルトに彼をモデルに使ってほしいと頼んだのである。感激したゴディは、水位の上昇具合を確かめるためにいまもアルマ橋に立ちつづけているというわけだ。
当時、世界で最も美しい通りであるシャンゼリゼ通りからは、四輪の無蓋馬車や辻馬車が姿を消しはじめていた。しかし昔ながらのリズムで回る木馬のメリーゴーランドと、1881年につくられた本物の「ギニュール」[リヨン発の指人形劇]は残っていた。童話作家のセギュール夫人が好んで描いた情景だ。子どもたちはキャンディの入ったカップの前でカラフルなビー玉の連なった輪や紙でできた風車を手にもって、いつの日か何百という風船のついた屋台ごと空へ上って天国に飛んでいきのを夢見ていた。レオン=ポール・ファルグが「迎え入れたような気分になる」と評した。<ル・フーケ>を除くシャンゼリゼ通りにあるカフェの大半は寄港した大型客船のようであり、シャンゼリゼと交差する道々に腰を据えたバーはそれに従う小型船団のようであった。
ここは露天商が絶えず見世物を繰り広げる場所だった。物見高い人は洋服屋から不意に現れるモデルの行列を見たり、もぐりの歌手のリサイタルを聞いたり、ひとりでいくつもの楽器や演奏する出し物を見たり、曲芸師や軽業師の芸を見たりした。
こうした見世物は突然始まったわけではない。1845年に初のコンサート喫茶が現れたのはこのあたりだった。初期にコンサート喫茶ではカフェの経営者に認められて店の隅に建てた芝居小屋にような演壇が置かれていた。デビューした頃から律儀に通ってきた観衆を沸かすために、叙情詩人たちが勇壮な行進曲や軍楽曲や面白おかしい歌を歌い、さまざまなジャンルを交代で演じた。
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夜が更けると、シャンゼリゼ通りに物見高い旅行者を脅かす怪しげな泥棒が集まってきた。警察のパトロール隊でさえ、襲われるのを恐れながら明かりを掲げて暗闇を進むほどだった。すでに1789年10月の時点で、シャンゼリゼ通りから大規模な野菜畑や泥道はなくなり、ショッセダンタン通りのゴミを押し流すむき出しの下水道はほとんどなくなっていたのに、パリ市庁舎そばの警察署には、シャンゼリゼ通りとシャイヨ通りの照明に苦情が出ている。確実にそして安全にパトロールを遂行するため、迅速にこの「通りに街灯を設けてほしい」という請願書が出されれいた。1817年には、椅子を借りる特権を認められていたムレという男が「占拠によって壊された照明をふたたび置いてほしい」と頼んでいる。そして希望通り、街灯が設置された。奇妙なことに、ガス灯を発明したフィリップ・ルボンが殺されたのは、このシャンゼリゼ通りの路上だった! 1839年に1200本あったガス灯は、1851年には130本も増えた。街灯ができるシャンゼリゼ通りはすぐ、気軽に野外のカフェを訪れ、シーソー、ブランコ、ダンス、コンサートなどの好きな娯楽を楽しみに来られる場所になった。辻馬車でさえ衝突することも急ぐこともなく澄み渡った水のなか進んでいくようだった。19世紀末、辻馬車の御者は、ルイ・フーケが1899年にシャンゼリゼ通り99番地を買い上げてつくった<ル・クリテリオン>に集った。
この頃、シャンゼリゼ通りが明るくなったことで徒歩で外出する人が増加した。人々はかつて<ラ・コリセ>[1771~1780年シャンゼリゼ通りのそばで営業していた店]があったカフェやレストランやダンスホールが集中していた地区を横切って歩いた。エトワール広場を過ぎると、地下の印刷所の窓から漏れてくるインクの匂いを感じる。大理石に当たる小石の音交じりのライノタイプ[新聞・雑誌などの印刷版をつくる鋳植機]を打つ音と、長しの音楽家の演奏が近くのカフェのテラスから聞こえてきた。