じじぃの「歴史・思想_38_パリとカフェ・ブルヴァール」

A Short Walk Around Boulevard de Clichy, Paris

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nVusnMEUy2g

Le Boulevard, Paris

パリの通り、あれこれ 「ブールヴァール」と「アヴェニュー」

October 17, 2011 ヨーロッパ、女一人旅 ~パリが恋しくて
フランスの都市のすべての通りには名前が付いていて、そして通りに面したすべての家には番号がついています。
パリ市内を走る道路は同じ名前の通りは一つとなく、「通り」の名称も一つとして同じものはありません。
avenue アヴェニュー (並木のある)大通り
boulevard ブールヴァール 大通り
rue リュー 通り(小路)
impasse アンパス 行き止まり
passage パサージュ 抜け道
chemin シュマン あぜ道
https://ameblo.jp/co-malico/entry-11044761846.html

『パリとカフェの歴史』

ジェラール・ルタイユール/著、広野和美、河野彩/訳 原書房 2018年発行

黄金時代――「パリ狂乱の時代」から「第一次世界大戦の勝利」まで より

あるカフェの常連客がこう書いている。「モンマルトルからオペラ座まで続く通りの帯状のアスファルトには、あらゆる人間がひしめいている」。夕刻に葉巻をくゆらせ、アブサンを飲みながら、人通りの多き場所にあるカフェの窓際に座って、目の前を通り過ぎていく人々を眺めるほど楽しい暇つぶしはない。あらゆる人間が行き交い大きな波のようにうねっていく。
ルイ・フィリップを失脚させた革命が勃発した場所であるカプシーヌ大通りや、帝政が興り瓦解した場所であるモンマルトル大通りの景色はこんなものではないだろうか? ルイ・ヴィヨーのエッセイ、『パリの香り』に登場する「カフェに通う人々のエスプリ」という表現は、ロマン主義が出現して以来こうした通りの主として君臨していた。ロマン主義は19世紀末の数十年間、カフェとブラスリーで花開いた運動である。
ロマン主義が花開いたのと対照的に、閉店したカフェもあれば、時代に合わせて変化したカフェもあった。イタリアン大通りからは<カフェ・グラン・バルコン>が姿を消した。<グラン・バルコン>にいた気難しいビール飲みや優雅なビリヤード愛好家たちはよその店へ逃れた。イタリアン大通りとパッサージュ・ド・ロペラ[1925年に取り壊された細い道]の角にあり、ジャーナリストやオペラ座の舞台関係者が集まっていた<カフェ・ルブロン>や<カフェ・グレトリー>も閉店した。しかし心配することはない! エスプリは大通り(ブルヴァール)を駆け巡っていた。
パリの知的活動は午後2時から午前2時のあいだに、ロミュー、作家のウジェーヌ・ヴェロン、写真家のナダール、作家のフェリシアン・マレフィルなどを中心にしたサークル内でおこなわれた。トルコ人に扮したナダールがイタリアン大通りを歩き回っている姿を見ることもあった。花のついた帽子をかぶり空色の服を着た声楽教師と、つばの広いボリバル帽をかぶり緑色のフロックコートを着たポーランド人の男が議論している姿を見かけることもあっただろう。独創性と奇抜さはともに欠かせないものとなる。作家や遊び人や流行に敏感な人がその発信源だった。それぞれが勝手に好きな格好をするようになり、歌手のギュスターヴ・マチューのように爪楊枝をくわえて、ボタンホールにいつもスミレの花を挿しているものもいた。こうした格好は、ブルヴァールや、<ル・ペルティエ>、<ディヴァン・ド・ロペラ>、<ラ・メゾン・ドール>、<カフェ・カルディナル>ではよく見られた。
ブルヴァール沿いの大きなカフェの神髄を理解するには、数年ときを遡る必要がある。1861年1月、モンマルトル大通りにあった<カフェ・スウェド>はアンリ・ミュルジェールという伝説的な客をひとり失った。彼はよりよいカフェへ行くべく行ってしまったのである。<カフェ・スウェド>には、語呂合わせの達人であるハンブルジェ、カフェ・コンセール[歌や見世物を見せるカフェ]で音楽を披露するためにいつも連れだっていた歌手のブロンドレと作曲家のボメーヌ、カードさばきで群衆をわかれぺらぺらと口上を述べる手品師のアルフレッド・ド・カストン、劇作家、ヴォードヴィル作家、役者など、ブルヴァールの有名人が多く出入りしていた。午後5時から6時のあいだは、店の主人に「鼻の三人組」と呼ばれたグルヌエとヤシントとグランジェが集まっていた。