じじぃの「歴史・思想_37_パリとカフェ・ムーラン・ルージュ」

Divan Japonais (lithograph)

『パリとカフェの歴史』

ジェラール・ルタイユール/著、広野和美、河野彩/訳 2018年発行

モンマルトル、パリのキャバレー より

いまからおよそ100年前のこと、ある田舎くさい平和な村が驚くような人々の隠れ家になった。故意に目立とうとしているわけではないのに目立ってしまう人々の隠れ家に。城壁の代わりの傾斜した道に守られ、西側は記憶の溜池のように時間がとまっている墓に囲まれたその場所は、数々の戦争や政変や風潮をものともせずに、控えめながら変わることなく存在し続けてきた。その村の名前はモンマルトル。
この丘は軍神マルスの丘、ヘルメスの丘、殉教者の丘など、歴史上さまざまな名前で呼ばれてきた。フランス革命の際に高台も石切場が革命派の隠れ家になっていたことを記念してマラーの丘[マラーはフランス革命の大立役者の医師・政治家]と呼ばれることもある。こうした呼び名は、この場所がすでに伝説に登場していた証拠といえるだろう。
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モンマルトルでは奇妙にも、詩人、彫刻家や画家、カフェ経営者や大衆が混じり合っていた。バティニョル大通りやクリシー大通りでは<ムーラン・ルージュ(モンマルトルにあるキャバレー)>の回転灯が、たむろする遊び人やエレガントな人や娘たちや女衒を照らしだす。シャンソン作家の才能のおかげで「ミュージッククラブ」が瞬く間に広まった。反権威的な詩人は絶えず容赦なく風刺シャンソンをつくり、今日と同じように魅力のある人物を揶揄した。政治家や大臣の最近の演説、その身だしなみ、航空機の技術進歩、最近のローマ教皇の回勅[ローマ教皇カトリック教会の統一見解を知らせるため世界じゅうの司教に送る手紙]、増えている離婚、言葉の達人にかかればそうしたことのすべてが風刺シャンソンになった。19世紀末、モンマルトルはとりわけ「パリのキャバレー」がある地区として頭角を現しはじめる。丘のふもとのマルティル通りには2軒の店が向かい合って立っていた。キャバレー<ラ・ベル・ポール>と<ブラスリー・デ・マルティル>だ。ゴンクール兄弟が「名もなき偉人の居酒屋兼隠れ家と評した2軒の店である。だがゴンクール兄弟の言葉は間違っていた。無名ではなく、将来有名になる多くの人物がすでに出没していたのである。
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1893年ロートレックは<ディヴァン・ジャポネ>のポスターを描いた。ポスターの近景で、『ワグナー評論』著者のエドゥアール・デュジャルダンの近くに座っているのは、<ムーラン・ルージュ>の踊り子であるジャヌ・アヴリルだ。奥の方にはトレードマークの黒い手袋をはめたイヴェット・ギルベールが描かれている。その後ときは流れる。新たなカフェやキャバレーができてはつびれた。反対に灰のなかからよみがえった店もあった。大衆は娯楽を求めてモンマルトルに押し寄せる。人のひしめく通りは芸術家にまたとない画題を与えれくれた。例えばフランシスク・プルボは羽根ペンをせわしく走らせて、さっと水彩絵の具を塗り、長い描線を描き出した。風でぼさぼさになった髪と反り返った鼻をして膝を擦りむいた少年たちを描いたプルボのイラストは世界中に広まった!
ムーラン・ルージュ>のポスターを描いたロートレックがカフェ・コンセールを描いた偉大な画家ならば、プルボはモンマルトルの少年を描いた画家といえるだろう。ジュール・シェレも忘れてはならない。シェレが描いた「シェレット」と呼ばれる女性のポスターは、当時のパリの壁を彩った。彼の作品で最も有名なのは、<ロルロージュ>、<ルラカザール>、<レ・ザンバサドゥール>、<ラ・テルテュリア>、<レ・フォリー・ベルジュール>のコンサートのポスターだろう。ユイスマンスの言葉を引用すると、「シェレは、非常に底意地が悪く刺激的なおぞましい屑を捨て、そのエキスさえも捨て、水面でぱちぱちと泡立つガスの泡立ちとあぶくだけを、自身が精製したパリのエッセンスに迎え入れた」
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1896年、<ル・タンブラン>があった場所に開店した<キャッザール>はオーギュスト・レーデルによって準備された山車の行列、「ヴァシャルカード」が初めておこなわれたカフェ・キャバレーだ。合唱隊つきの大規模なオーケストラに続いて、行列はコーランクール通りへ進み、クリシー大通り、ロシュシュアール大通り、バティニョル大通りを通った。19世紀末、ロドルフ・サリスと彼の友人たちにとって、モンマルトルはパリの中心だった。<ル・シャ・ノワール>がモンマルトルの頭脳ならば、<ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット>はモンマルトルの魂だったといえるだろう。