じじぃの「科学・芸術_296_ダンス・フレンチカンカン」

Music Hall CanCan 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=lK0gYi1YEZ8
The Moulin Rouge Showgirl: Can Can Burlesque! 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=3F7B2i02jrM
French Moulin Rouge girls

『フランスが生んだロンドン イギリスが作ったパリ』 ジョナサン・コンリン/著、松尾恭子/訳 柏書房 2014年発行
1860年にダンサーが書いたリゴルボーシェ回想録は、他の回想録と同じように短い。その理由について、リゴルボーシェは次のように説明している。「長くなんてできっこないでしょ? だって私、18歳だもの!」この類の回想録は、お涙頂戴の話や同業者に対する悪口、自慢話などで構成されていた。
『遊歩者の生理学』の著者ルイ・ユアールは、ありきたりとは思っていたようだが、他の回想録と同様の構成にしており、所々に「私、悪魔はいるって信じているわ。悪魔は私の恩人なの」などといったユーモアを盛り込んでいる。リゴルボーシェは、彼女の代名詞であるカンカンについて、次のように語っている。「フランスのダンスといったらカンカンよね。カンカンは国のダンス。パリっ子の想像力が生んだダンスよ」。カンカンの曲の旋律は、しだいにリゴルボーシェの体を支配し、彼女の体を激しく揺り動かす。そしてリゴルボーシェは、まるで夢遊病者のように夢うつつの状態になる。「音楽が私の胃の中で凝縮されて、まるでシャンパンみたいに脳へ上がっていくの」
カンカンは、パリの代名詞である。あるいは「陽気なパリ」の代名詞である。世界の国の各都市には観光案内書があり、観光客はそれに載っている観光名所を巡る。一方、住民は「観光客捕獲器」を巡る観光客を鼻先で笑い、「観光客捕獲器」を避けて通る。例えば、生粋のニューヨーカーじは、エンパイア・ステート・ビルディングには上らない。普通はどの都市でも、旅行者が通る道と住人が通る道は違う。「都市の本当の姿を」を知っている者、あるいは知っていると思っている者は、観光名所を訪れる旅行者のことを困った人びとだと思い、遠巻きに眺める。アーサー・シモンズは初めてパリを訪れた時も、ボードレールのように「群衆に浴する」ことを知っていた。そして、避けるべきことも心得ていた。シモンズは、母国に次のように報告している。「私たちは、エッフェル塔には上らなかった。エッフェル塔を見た時、初めて見たという気がしなかった」
      ・
本章では、カンカンについて考察する。フランスの「国のダンス」であるカンカンは、1830年頃に生まれ、やがて「陽気なパリ」を象徴するもののひとつになった。カンカンは少しずつ変化し、誕生からおよそ60年を経た1890年頃には、脚を高く上げ、スカートをまくり上げ、幾重にも重なったペチコートをちらっと見せながら踊るダンスになる。旅行者にとって、いかにもパリを感じさえるダンスであり、パリ市民もそう思っていた。後に述べるがカンカンをフランスのダンスと見なす方が、フランスにとってもイギリスにとっても都合がよかった。しかし、実は、カンカンはふたつの国のダンスが合わさって生まれている。今日、フランスで「フレンチカンカン」(これもイギリスにおける名称で呼ばれている)と呼ばれるダンスは、フランスのカンカンとイギリスのスカート・ダンスが融合したダンスである。ふたつの都市のダンサーが、互いに行き来する過程で、相手の国のダンスを取り入れていったのである。
カンカンは、1830年に勃発した7月革命の後、パリで生まれた。カンカンという名称は「騒音」や「騒動」を意味する16世紀の言葉に由来する。有名な警察の密偵ヴィドックも、1810年頃、<ギヨタン>において、「淫ら」な踊りであるカンカンを観ている。<ギヨタン>は、クルティーユの城壁の近くに建っていた、煙草の煙が漂ういかがわしいカバレである。
カンカンは、イギリスの地方のダンスであるカドリーユが発展したダンスだ。カドリーユは、4組の男女が一緒に躍るダンスで、18世紀にパリに伝わっている。1855年頃には、カンカンは国民的なダンスになり、女性ダンサーが、男性客のために足を高く上げて踊るようになる。1845年には、ロンドンの<ヴォクソール>でカンカンのショーが上演され、1852年には<クレモーン>でも上演された。ただし、このふたつのプレジャー・ガーデンのショーは不成功に終わっている。当時、カンカンのダンサーは、セーヌ川の南にあるモンパルナス通りの<グラン・ショミエール>や<クロズリー・デ・リラ>(バル・ブルリエールの名でも知られている)などのバル・ピュブリク(舞踏場)などで踊っていた。
      ・
カンカンは、パリとロンドンの交流によって発展したダンスである。しかし、愛国心から、この事実を認めない者もいた。イギリス人は、カンカンという名称に「フレンチ」をつけて呼ぶようになった。「異国風」で商業的に有利だったからでもあるが、道徳的な観点から見ても都合がよかったからだ。ホリングスヘッドをはじめとする劇場経営者も、オーミストン・チャント夫人のような立派な運動家も、ひとつの点では意見が一致していた。両者とも「カンカンのような、破廉恥で異性を惑わすダンスを考え出したのはイギリス人ではない」と思っていた。1874年、『ヴァニチィ・フェア』の編集者トマス・ギブソン・ボウルズは、次のように述べている。「カンカンという言葉の訳語には、淫らな言葉を用いるしかない……カンカンは、たいへん淫らな行為を思い起こさせるダンスだ」。一方、フランス人は、「カンカンは国のダンスだ」と考えた。カンカンのショーは、モンマルトルのミュージック・ホールにとってドル箱だった。ただ、モンマルトルでは、ブリュアンのショーも大切に守られていた。<ムーラン・ルージュ>が建つ煌(きら)びやかなブランシュ広場の陰に隠れていたが、いわゆる古きモンマルトルも残っていた。