じじぃの「歴史・思想_35_パリとカフェ・プロコープ」

Le Procope, Paris -- A Place of Rendezvous Through History

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nZbrql2bq5M

Cafe Procope

ル・プロコープ(Le Procope)

●1686年開店の老舗カフェ
ル・プロコープは1686年に開店した最古のカフェというだけあって歴史を感じさせてくれる重厚な雰囲気のカフェです。
だからといって堅苦しいお店ではなく、カジュアルな格好でも入ることのできる気軽なカフェです。
http://www.hitoriparis.com/cafe/procope.html

『パリとカフェの歴史』

ジェラール・ルタイユール/著、広野和美、河野彩/訳 2018年発行

摂政時代からフランス革命まで――政争の渦中にあったカフェ より

パリの最も古いカルティエのひとつにある<プロコープ>は、紛れもなく、パリに創られた最初のカフェである。薄暗い家々が立ち並ぶ込み入った通りを横切ったところにあるこのカフェには、オーベルジュやロティスリ、賭博場あるいはその他の楽しみを求めてこの界隈にやって来る雑多な男たちがたむろしている。情事に耽るための部屋や夜が更けてから人が訪れる密室もあった。警官がいつも見張っている。カフェの中は豪華な装飾が施されている。壁には一面にタピスリーや絵画、鏡が張りめぐらされ、大理石のテーブルが置かれ、天井からクリスタルのシャンデリアが吊るされている。
広い扉の前に四輪馬車が列をなして停まり、中から、ペチコートで膨らませたドレスを身にまとい、高く結い上げた髪に粉を振ったうっとりするような美女たちが姿を現す。彼女たちは室内に入るわけではない。テラスに沿って措かれたテーブルの前に腰を下ろし、アイスクリームやココアを注文するだけで満足していた。室内には、絹の衣服を着た一団が我先にと入っていく。その中には小さなケープを肩に掛け、剣を手にした気取った神父や、ポケットを本や原稿で膨らませた文学者たちもいる。室内はさまざまな声や身振りが入り交じり、ザワザワとしている。
このカフェの創設者であるフランソワ・プロコープは、本当の名前はフランチェスコ・プロコピオ・ディ・コルテッリと言い、1670年にシチリアから財を成そうとパリにやってきた。当時パリでは、クレタ島出身の足の不自由なキャンディオとレヴァント地方出身のジョセフがコーヒー売りとして有名だったが、プロコープもこの2人と同じように、ささやかな行商から始めたのだ。
プロコープが他のコーヒー売りと違っていたのは、カップや用具一式を並べた屋台の後ろに立ち、手には水を貯めた小型の給水器とコーヒーポットにかぶせる保温カバーを持っていたことだ。水運び屋や箒(ほうき)売り、満タンにした樽を載せた手押し車を押している酢の販売人、くず鉄回収屋、街灯の点灯夫、絵画商など、パリの通りを行き交う行商人たちの間を縫って、プロコープは舗装の上をガタガタと屋台を引きながらブルジョアたちが住むアパートの部屋や屋敷まで温かいコーヒーを運び、1杯につき4スーで売っていた。しばらくの間、プロコープは、サン=ジェルマン大市でやじ馬たちにオスマン帝国の「カワ」を紹介していた2人のアルメニア人商人パスカルとマリバンの手伝いをしていたが、1675年にトゥルノン通りに、自分の店(プロコープ)を開き、独立した。
1684年、プロコープはフォセ=サン=ジェルマン通りに店を移した。そこはちょうどエトワール球戯場の真美会で、ジュ・ド・ポームで汗を流した者たちや隣接するプレ=ゾ=クレール草原で決闘を終えた者たちが通った浴場施設の跡地だった。大きな窓ガラスがはめ込まれた枠が幾つも並ぶこの古い建物のファサードには、「ここは、文字通り、ひげを剃り、風呂やサウナに入るところ」という文字が書かれている。サン・シュエール・ド・トュラン(トリノの聖骸布)という看板を掲げたこのサウナでは、清潔好きな客に十分に熱くしたリネンを渡し、イタリア音楽を流しながら昼食をサービスするだけではなかった。店の名前からは謹厳な場所のように思われるが、ここには家具付きの部屋があり、殿方を歓待しようと待ち構えている遊女がいると言われている。
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しばらくの間、<プロコープ>は繁盛した。思いがけず多くの客が店を訪れるようになり、店の金庫番は笑いが止まらなかった。通りに面した新しい立派な劇場の白いファサードの上部には、三角形のペディメントがとりつけられ、門に向かって急ぐ人々の流れを女神ミネルバが静かに見つめている。
フランスの紋章が彫り込まれている装飾額には、「国王陛下が管理する王の俳優たちの館」という劇団名が記されている。この名称は誰もが気に入らなかった。宮廷付きの神父ラ・トゥールはこれに異を唱え、「劇団は、不品行で卑劣極まりなく、軽蔑すべき者たちの集団でしかなく、戯曲は、滑稽さ、情熱、悪事の寄せ集めに過ぎないのだから、劇団の正面入り口に「国王陛下が管理する王の俳優たちの館」と掲げるのはおかしい。我慢ならない!」と書いている。モリエールは作品の中でこうした反発を厳しく避難しているが、芝居の愛好家たちはこのような反発などものともせず、相変わらず劇場に押しかけ、通りにはさまざまな色の羽根飾りをつけた帽子のうごめきで埋め尽くされていた。その集団は、やがて芝居の幕が下りれば、<プロコープ>に押し寄せる。したがってこのカフェは、芝居の脈拍に呼応し、芝居が成功すれば繁盛し、評判が悪ければ閑散とするといった具合に、劇場のリズムで活気を呈するのだった。店主の子供たちは、盆に載せたコーヒーを客のところまで運ぶ手伝いをしながら、おしゃべり好きの噂話を聞き、テーブルの間を走り回り、客たちを楽しませながら成長していった。客は子供たちを「小さなギャルソン(男の子)!」と呼び、成長するにつれて「ギャルソン!」と呼ぶようになった。これが今日も給仕の呼び名として残っている。
今や、<プロコープ>は芸術家や俳優、音楽家らが集まり寛ぐ場となっている。コメディ=フランセーズは、ベルクール、2人のポワッソン、グランヴァル、2人のキノー、ル・カン、プレヴィル、モレ、マドオアゼル・ダンジュヴィル、ルクヴルール、ゴッサン、クレロン、演出家のサンヴァル、デュメニルらの活躍によってヨーロッパ第1の劇団になった。劇場に近いという地の利を得て、<プロコープ>には、こけら落としの日から多くの客が訪れるようになったが、その多くは知識人たちだった。劇作家のポワンダン(1675~1751)、文学者でもあるテラソン神父、作家で歴史家のドュクロ、歴史家のフレーレ、作家のマンモンテル(1723~1799)、作家のラ・モリエール騎士、ラ・ファイエ大尉、文法学者のドュマラセらが出入りし、顔を合わせることもあった。