じじぃの「歴史・思想_32_合衆国史・独立戦争」

3rd September 1783: Treaty of Paris ends the American Revolutionary War

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Wz-EyvTVah4

Treaty of Paris, 1783

『植民地から建国へ 19世紀初頭まで シリーズアメリカ合衆国史①』

和田光弘/著 岩波新書 2019年発行

独立戦争の展開と建国神話の生成

北・中部での前半戦 より

このように政局が目まぐるしく展開する一方で、革命の帰趨は選局によって左右されたといえる。軍事面からすれば、独立革命とは寄せ集めの13邦が、当時最強のイギリス軍に果敢に挑んだ戦い、つまり独立戦争にほかならない。両者の力の差から見て、アメリカ側が軍事的に勝利を収める可能性は必ずしも高いとは思われなかったが、軍事的勝利なくして、革命の成功は見込めなかったのである。大陸側はにわか作りで、その規模は平均して1万人前後、常に兵員や物資の不足に悩まされ続けた。他方、本国は18世紀中最大規模の軍を動員し、さらにドイツからも傭兵部隊を送り込んだ。
戦いの前半戦は、北部・中部が舞台となった。独立宣言が発せられたのち、イギリス軍の大部隊がニューヨーク市に上陸した。平地での戦いに不慣れなワシントンが指揮する大陸軍はこれに対峙したが、敗北を喫した。北米でも人気のハウ兄弟による休戦交渉も失敗に終わり、ニューヨーク市には以後、戦争終結まで英軍が常駐することになる。

南部での後半戦 より

独立戦争の後半戦は、おもに南部が舞台となった。本国側は南部には忠誠派が多く潜在していると考え、イギリス軍が向かうことでその勢力を顕在化させ、この地域を分断して支配下に置こうとしたのである。忠誠派が多いとの見込みは正鵠を射てはいなかったものの、一部地域では愛国派と忠誠派の地域住民どうしによる内戦の様相を呈することになる。
1780年5月、アメリカ側はサウスカロライナのチャールトンで惨敗を喫するが、同年10月に南部の奥地、南北カロライナの境界付近で勃発したキングズマウンテンの戦いで勝利を収める。近隣の奥地・山間部から民兵が続々と集結し、「オーバーマウンテン」と呼ばれた彼らが中心となって英軍を取り囲み、山頂に追い詰めて撃破したのである。この勝利は久々の朗報として、アメリカ側に士気の高揚をもたらした。翌1781年1月には、キングズマウンテンから遠くないカウペンズで、悪名高い英軍のバナスタ・タールトン――降伏した兵を容赦なく殺害した――の騎兵隊などを、ライフル隊を率いて有名なダニエル・モーガンが打ち破った。
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イギリスの艦隊はニューヨークから援護に向かったものの、西インド諸島から北上してきたフランスの艦隊に阻まれ、英軍の海への脱出は不可能となった。さらにワシントン指揮下の主力軍が、1780年に来援していたロシャンボーのフランス軍とともに密かに南下し、戦場に急行して英軍を阻んだ。この攻囲戦のさなか、ワシントンが信頼を寄せるアレグザンダー・ハミルトンは、イギリス軍の砦の1つを攻略する命がけの任務を引き受け、成功させている。
追い詰められた英軍を率いるチャールズ・コーンウォリスは降伏し、ヨークタウンの戦いはアメリカ側の大勝利に終わった。サラトガの戦いのちょうど4年後、1781年10月半ばのことであった。伝説によれば、降伏時、イギリスの軍楽隊は「世界がひっくり返った」というイギリスのバラッドを演奏したという。
この戦いにより、独立戦争全体の趨勢がほぼ決した。イギリス側は戦争終結後をにらんで、アメリカに寛大な条件で講和を結ぶべく、フランス側には内密に、フランクリンらアメリカ側の使節とパリで交渉を開始した。1782年、両者間で単独講和の予備条約が成立し、翌83年、正式にパリ条約が調印された。この条約でイギリスはアメリカの独立を認め、ミシシッピ川以東の領土を割譲した(図.画像参照)。同年には、イギリスとフランス・スペイン間で条約(ヴェルサイユ条約)が結ばれ、フランスはイギリスから若干の領土を得たが、莫大な戦費に見合うものではなく、これがフランス革命の遠因の1つともされる。一方、スペインはイギリスからフロリダを取り戻した。
パリ条約調印を受けて、1783年11月25日、イギリス軍はニューヨーク市から撤退し、以後、この日はニューヨークの記念日となる。この地に住んでいた多くの忠誠派の人々も、カナダなどに脱出した。