じじぃの「科学・芸術_844_北朝鮮核実験場・豊渓里」

北朝鮮 6回目の核実験後に大規模崩落 200人死亡か(17/10/31)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1IEaN1r0ARc

北朝鮮核実験場

北朝鮮の核実験場が崩落・使用不可能に=中国科学者ら

2018年04月26日 BBCニュース
中国科学技術大学の研究チームは25日、北朝鮮北東部の豊渓里(プンゲリ)にある核実験場の山が部分的に崩落し使用不可能になっているとの判断を示した。
https://www.bbc.com/japanese/43903175

週刊新潮 2018年12月14日号』

北朝鮮核実験場「豊渓里」死の光景 より

大きな爆発音が聞こえたのは、早朝のことでした。午前5時か6時頃だったでしょうか。地震のように家全体が大きく揺れ、ドスン、ドスンと窓に何か物が当る音が響きました。その直後、息子が大きな声で、
 「ママ、ママ! 鳥が落ちて死んでいるよッ」
と起こしに来たんです。確かに、外に出るとスズメやカササギなどの鳥たちが、空から落下してたくさん死んでいた。川を見れば、無数の魚たちが白い腹を出して浮かんでいて――。
そう語る金平岡(キムピョンガン)氏は50代の脱北女性。今年の春、亡命先の韓国で小説『豊渓里(プンゲリ)』を上梓した。書名になった地名に聞き覚えのある方もいるだろう。かの地は、北朝鮮による6回すべての地下核実験が行われた、朝鮮半島北東部に位置する山村である。夫が核開発に携わるエリート技官だった彼女は、そこで暮らした経験を持つ“唯一の脱北者”なのだ。自らの体験を織り交ぜ記された著作は、未だ日本語訳はされていない。そこで小誌は、本に記されなかった内容を含め、謎に包まれた核実験場の実態を改めて紹介して貰った。冒頭の場面は、2006年に北朝鮮が初めて核実験に成功した際の様子だが、彼女はそこで起きた“異変”が、鳥や魚のみならずヒトにも及んでいたと振り返る。
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再びこの地を訪れたのは1990年頃のこと。奇しくも、夫が軍の命令で赴任していたのです。
最寄り駅から山道を車で1時間ほど登ると、高射砲が集まった軍施設がありました。北は密かに70年代から実験場の建設を始め、住民には“ミサイル基地”と説明していたようですが、実は山裾に幾つもの坑道を掘っていた。避難訓練で入ったことがありますが、中は広く奥まで長く続いていました。ガス灯が3つほどしかついておらず、暗闇ばかりで強い恐怖感に襲われたことを覚えています。
そもそも、この辺りは日帝時代(※日本統治下)に陶磁器の原料を採掘する鉱山が開かれ、そこに至る鉄道を敷いたのも日本でした。それらを利用して実験場を作ったというわけです。一方で、豊渓里は松茸の産地としても知られ、とりわけ軍の施設がある山奥に良質なモノが植わっていた。秋になれば村人は競って松茸狩りに精を出すのですが、そこに行くまで軍の検問所が幾つもあり、一般人は立ち入ることができません。けれど、入るなと言う一方で稼げ稼げというのもまた国の命令。北では人民に「忠誠の外貨稼ぎ」と呼ばれるノルマが課せられ、達成できなければ罰を受ける。そのため、侵入する住民が後を絶たなかった。
手っ取り早く外貨を得るには日本人が好む松茸やイカを売るのが一番で、「日本人が山と言えば山へ、海と言うなら海に向かえ」なんて言葉が広まっていたのです。豊渓里の駅から数えて4つ目に吉州(キルジュ)というターミナルがあります。
そこに行けば、身なりのいい日本人たちがいて、砂糖などの食料品や自動車を運んで来ていた。皆、彼らを相手に松茸を売っていました。
豊渓里では清流に棲む川魚もご馳走でした。ニジマス金日成(キムイルソン)主席の時代から献上品とされ口にすることはありませんでしたが、ヤマメもよく獲れた。村人は串に刺して焼いたり煮たりしていました。私が息子を宿した時は、お祝いにヤマメ鍋を作ってくれたこともありました。

そんな住民たちは、核実験後、川魚たちが白い腹を露に群れとなって死んでも構わず拾って調理していました。加えて、水道はおろか井戸もない山奥とあって、村人らは飲料水をその川に求めた。結果、腹痛や血便が止まらなくなる病気が広まったのです。

金ファミリーへの献上品から、豊渓里の特産である松茸やニジマスが密かに外されていたと知るのは、亡命後のことでした。