じじぃの「歴史・思想_18_世界史大図鑑・レーニン」

The Bolshevik October Revolution

『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

もしいまわれわれが権力を掌握しないなら、歴史はわれわれを許さないだろう 十月革命(1917年)

1817年10月、第1次世界大戦で大敗を喫すると、ロシアは混乱状態に陥った。食糧が不足し、都市の労働者は低賃金と過酷な条件にあえいだ。二月革命によって皇帝が追放されたが、代わりにできた臨時政府も崩壊寸前の状況だった。
革命政党ボリシェヴィキ創始者ウラジーミル・レーニンがこの機を最大限に利用した。レーニンは労働者(プロレタリアート)の革命を進めていて、四月テーゼとして知られる文書で一連の政府転覆案を示した。レーニンのスローガン「平和、土地、パン!」が革命のかけ声となる。

ウラジーミル・イリイチレーニン より

1870年4月10日(GC4月22日)にウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフとして生まれる。このボリシェヴィキ創始者でソヴィエト・ロシアの時代リーダーは、大胆な理論家で疲れを知らない実行者だった。レーニンマルクス主義の革命家として活発に活動をはじめたのは、兄のアレクサンドルが皇帝アレクサンドル3世の暗殺を企てたとして1887年に処刑されたことだ。レーニンはこの出来事によって神と宗教への信仰を捨てた。1895年に逮捕され、シベリアで3年間の流形生活を送る。
レーニンがいちばんの目的としたのは、皇帝への対抗勢力としてひとつのまとまった運動を組織することだった。1917年3月のロシア革命後、時期が訪れたと見てロシアへ帰国する。10月にレーニンボリシェヴィキを率いて当時の政府に反抗し、すべての抵抗を抑えて世界初の共産主義国家の独裁者となった。
レーニンにとって大きな困難となったのが内戦(1918年~20年)だった。共産党が勝利をおさめはしたが、ロシアは弱体化した。またリーダーシップの重圧からレーニンの健康状態も悪化した。2度の発作を経て話す能力も失い、1924年1月21日に死亡した。

革命は間近 より

10月25日(GC11月7日)の夜、レーニンはロシア人民に向けて短い声明を出した。「臨時政府は打倒された。労働者、兵士、農民の革命万歳!」。この最初の勝利ののち、レーニンは民主的選挙をおこなうことを余儀なくされたが、ボリシェヴィキは4分の1しか票を獲得できなかった。レーニンは選出された政権を解散させ、武装衛兵を送って会議がふたたび開かれるのを阻止した。1918年2月、レーニンはドイツと講和条約を結んだが、条件はロシアにとってきびしいものだった。ロシアはバルト三国をドイツへ譲り、ウクライナフィンランドエストニアは独立国家となった。ロシアはまた賠償金として60臆ドイツマルクを支払わされた。これによってボリシェヴィキはドイツからの脅威から解放されたが、条約で強いられた条件は国民の大きな不評を買った。多くの人が、これを国への裏切りだと見なした。

内戦 より

ボリシェヴィキは権力を握ったものの、こんどはそれを維持していく必要があった。レーニンはきわめて中央集権的な統治の仕組みを確立し、野党をすべて禁止して「赤色テロ」、すなわちボリシェヴィキへの脅威と見なされる者を威嚇、処刑、逮捕する作戦をはじめた。
ボリシェヴィキはロシアでは少数派であり、敵対勢力は兵力を結集させて対抗した。敵対勢力は元皇帝主義者、陸軍将校、民主主義者から成る「白色」を主としていた。ボリシェヴィキは「赤色」として知られた。
さまざまな党派が国の将来をめぐって戦ううちに、極端な暴力を特徴とする内戦がロシアで勃発し、1918年から21年までつづいた。白色は、ロシアの元同盟国で共産主義の拡散を恐れるイギリス、フランス、アメリカ、日本から支援を受けた。はじめは大きな勝利を得た。しかし統制がとれておらず、一方のトロツキーは際立った軍事戦術家だった。
1920年レーニンは東欧と中欧の労働者を解放しようと対ポーランド戦争を指示したが、ワルシャワの戦いで猛反撃に遭い、赤軍は追い返された。

荒廃した国 より

レーニン1921年までに白色を破り、ようやくロシア経済の立てなおしに意識を向けられるようになった。
レーニンが向き合うこととなったのは崩壊寸前の国だった。地方ではおよそ600万人の小作農が餓死し、都市では暴動が起こっていた。1921年3月に、ペトログラード海岸沖の島にある海軍の町クロンシュタットで水兵の反乱があり、さらに政権を揺るがす。1万6,000人の兵士と労働者が「ボリシェヴィキのないソヴィエト」を求める網領を採択した。自由選挙で選ばれる会議と、言論・出版の自由を求めたのである。ボリシェヴィキは容赦ない反応を示し、首謀者を何百人も処刑して1万5,000人以上の水兵を艦隊から追放した。
1922年5月、レーニンは病の発作に襲われる。12月にソヴィエト政府は、ソヴィエト社会主義共和国連邦ソ連)の建国を宣言した。ソヴィエト・ロシアと共産主義運動の分派が支配する近隣地域からなる、連邦制の連合国家である。最初からソ連は一党制を前提としており、ほかの政治組織はすべて禁止された。
レーニンは内部抗争に失望し、自分の死後、いかにソ連の国家運営がなされるのかを心配していた。1922年の終わりと1923年のはじめ、レーニンはのちに「遺書」として知られることになるものを書きとらせ、ソヴィエト政府が選んだ道に後悔の念を示している。特に、共産党書記長ヨシフ・スターリンには批判的だった。スターリンとのあいだに軋轢を生んでいた。
レーニン1924年に死んだが、彼の遺産は生きつづけた。ボリシェヴィキが世界初の社会主義国家を大国に打ち立てたことで、すべての国が影響を受けた。社会主義革命の勝利によって、労働者は資本主義やかつての帝国主義体制とは異なる社会がありうることを知り、大きな刺激を受けたのである。