The American Civil War: Animated Battle Map
Thomas Nast’s cartoons
『世界史大図鑑』
レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行
人民の、人民による、人民のための政治を地上から絶滅させてはならない ゲティスバーグの演説(1863年)
1863年11月19日、アメリカ南北戦争はまだ中途の段階にあったが、ペンシルベニア州のゲティスバーグでアメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが、のちに「ゲティスバーグの演説」として知られる演説をおこなった。そのなかでリンカーンは、南北戦争を国家統一とすべての人間の平等を保証するための戦いだと位置づけた。
エイブラハム・リンカーン より
1861年2月、大統領就任のためワシントン入りしたエイブラハム・リンカーン(1809年~65年)は、当時の政界において、世間知らずの無知な田舎者と蔑まれていた。その4年後の暗殺までに、リンカーンはアメリカの堂々たる統治者となっていた。南北戦争で勝利をおさめただけでなく、ある種の抗(あらが)いがたい政治の賢人としての地位を確立したのである。
リンカーンはケンタッキー州の丸太小屋で生まれ、20代後半になって法律家の資格を取得した。その後、奴隷制反対を掲げて登場するすることになる共和党から、弁論に長けた論客として頭角を現した。軍の経験はなかったが、南北戦争をどう戦うべきかについて鋭い判断を発揮するようになり、グランド将軍を積極的に取り立てた。人間の本質的な尊厳と、アメリカの自由を守り抜くという大局的な目標をけっして見失わなかった人物である。断固とした姿勢で戦争に臨んだが、南北戦争で失われた多数の人命の意義を正確に理解していた。
北軍の最終的な勝利 より
アメリカ南北戦争の結果は、最終的には人員と物資の南北差によって決まった。北軍の21州の人口は2,000万人だったのに対し、南部連合の11州の人口は900万人で、そのうち400万人は奴隷であり、武器を持つことが許されていなかった。1864年の時点までに、18歳から60歳までの男性のうち徴兵された者の割合は、北部では44%だったが、南部では90%に及んだ。それでもなお、北部はこの戦争中に220万人を動員したのに対して、南部は80万人にすぎなかった。
北部の財力は南部の3倍だった。鉄道の敷設距離では北と南の比が19対8程度であり、工場生産量は北が南の10倍だった。鉄の生産量では北が南の20倍、石炭は38倍、銃器は32倍である。ただひとつ、南が北にまさっていたのは綿花の生産量で、これは北の24倍あった。
これだけ北が優利だったことを考えると、南軍が北軍を相手に4年も持ちこたえただけでなく、1862年から1863年にかけて勝利の一歩手前まで近づいたという事実は、南軍の兵士たちが自分たちの大義を心から信奉していたことの表れだったとも言える。また、バージニア州出身のロバート・E・リーをはじめとする傑出した将軍たちの存在も大きかった。対する北軍は、ユリシーズ・S・グラントとウィリアム・シャーマンが指導者として台頭するまでは、臆病で無能な将軍が山ほどいて、それだけの強みを手にしていても、ただ無駄にするばかりだった。
グラントとシャーマンによって息を吹き返した北軍は、優位に立った。1864年9月のアトランタ破壊につづいて、シャーマンはジョージア州サヴァンナまでの「海の行進」を決行した。12月に進撃が完了したときには、96.5kmの幅にわたる土地が破壊しつくされていたが、これは民間人の所有物をあえて標的にしたものだった。「戦争とは残虐なものだ。残虐であればあるほど、早く終結する」とシャーマンは語っている。
トマス・ナストによる絵
奴隷解放宣言の前と後でのアメリカの黒人の生活を表現している。エイブラハム・リンカーンも描かれている。