じじぃの「歴史・思想_04_世界史大図鑑・ユリウス・カエサル」

Gaius Julius Caesar's life

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=rFAblvgTGzw

The Divisions of Gaul

古代ローマの「ルビコン川」

ウィキペディアWikipedia) より
共和政末期の古代ローマにおいては、ルビコン川とアルノ川を結ぶラインがイタリア本土の北限、属州ガリア・キサルピナとの境界線の役割を果たしていた。軍団を率いてこの川を越え南下することは法により禁じられており、禁を破ればすなわち共和国に対する反逆とみなされた。
一般にルビコン川の名前は、紀元前49年1月10日、ローマ内戦においてユリウス・カエサル元老院の命令に背き、軍を率いてこの川を渡った故事によって知られる。この際に「賽は投げられた」(alea iacta est, アーレア・ヤクタ・エスト)と部隊に檄を飛ばしたことはあまりにも有名である。「ルビコン川を渡る」(英: cross the Rubicon)という言葉は、その後の運命を決め後戻りのできないような重大な決断・行動の表現として使われている。

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『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

専制者はみな、かくのごとく ユリウス・カエサルの暗殺(紀元前44年)

ユリウス・カエサル より

ガイウス・ユリウス・カエサルは、怪訝全100年にローマでパトリキの名家に生まれた。若いころから、絶望的に腐敗した政治体制のもとでは金銭が権力への鍵となることを理解していた。また、成功には協力者と後援者のネットワークを築くことが不可欠であることも、すぐに学んだ。
紀元前72年、スパルタクス率いる奴隷の蜂起を鎮圧する戦争に従事したあと、カエサルは短時間、海賊の人實となった。紀元前60年にローマにもどると、カエサルは巨額を投じて影響力と地位を買収し、ついにはクラッススポンペイウスというローマの有力者ふたりと手を組んで、いわゆる第1回三頭政治を打ち立てる。紀元前58年から50年のあいだに、カエサルガリア属州に権力基盤を築き、そこで元老院の許可を得ずに一連の軍事行動を起こして、途方もない富と強力な軍隊を持つ西ヨーロッパの主となった。しかし、、こういった軍事行動によって支配階級に多くの敵を作り、カエサルの仕事と生涯は短命に終わった。

ユリウス・カエサルの出現 より

紀元前60年、カエサルは執政官に選ばれ、その2年後に属州ガリアの総督に任命された。この職のおかげで、カエサル元老院の状況を引きつづき把握しながら、軍事的成功への足がかりも得た。その後8年間で一連の鮮やかな作戦行動を展開し、ガリアを征服して現在のフランス全土とドイツおよびベルギーのの一部を支配下に置いた。また紀元前55年と54年の2度、ブリタニアへの遠征を指揮した。英雄的軍功によって巨大な富を得、名声を高めたカエサルは、軍からもローマの大衆からも支持された。自身も大衆に惜しみなく饗宴や娯楽や金銭を与えた。
成功に勢いを得たカエサルは、ローマ政界への復帰に際しての条件に注文をつけ、ガリアを指揮したまま2度目の執政官に立候補できるよう求めた。そのため、カエサル元老院閥族派と衝突する。ローマの法は軍事指導者がローマにはいる前に軍の指導権を放棄するよう求めていて、これが公職へ立候補する際の前提条件だったからだ。カエサル自身は、もし要求に応じて一般市民としてローマにはいったら、政敵たちに裁かれる可能性が高いと読んでいた。
ローマでは、カエサルが急速に力をつけたのを警戒した閥族派が、カエサルのおもな政治ライバルのひとりで高名なポンペイウスと手を組んだ。元老院は、カエサルガリアからもどったときに指揮権を剥奪するための法律をいくつか可決し、紀元前49年にはカエサルが「ホスティス」、すなわち共和国の敵であると宣言した。この露骨な威嚇に反応して、カエサルは意表を突いた行動に出た。軍をローマに進めたのである。途中、ガリアの属州とイタリア本土との境界、ルビコン川という小川のほとりでいったん進軍をやめた。川を越えたら元老院に宣戦布告することになると重々承知していたが、アテネの詩人メナンドロスを引用して「アーレア・ヤクタ・エスト(賽は投げられた)」とそこで宣言し、兵士たちをふたたび前進させた。