じじぃの「人の死にざま_1242_ハドリアヌス」

ハドリアヌス - あのひと検索 SPYSEE
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Roman Emperor Hadrianus.wmv 動画 YouTube
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-HD-ローマのパンテオン-Pantheon of Rome- 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=WL-NKMDQnAM
ローマ帝国の版図 画像
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映画 「テルマエ・ロマエ 画像
http://eiga.fan-site.net/mydvd/jp_eiga/05ta/thermae_romae(C).jpg
ハドリアヌス ウィキペディアWikipedia)より
プブリウス・アエリウス・トラヤヌスハドリアヌス(古典ラテン語: Publius Aelius Trajanus Hadrianus (プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス)、76年1月24日 - 138年7月10日)は、第14代ローマ皇帝(在位:117年 - 138年)。ネルウァ=アントニヌス朝の第3代目皇帝。帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく国境安定化路線へと転換した。
【その他】
文化面では118年、ローマ近郊のティヴォリに大規模な別荘ウィラ・ハドリアヌスの造営を開始し、同時に後世の新古典主義建築に大きな影響を与えた、ローマに今日まで残るパンテオン 神殿の再建に着手した。そのほか、ローマのウェヌスとローマ神殿など、ローマ、イタリア、属州各地においてきわめて多くの造営事業を行った。
もともと頑健であったが、晩年は体調不良に苦しみ、幾度か自殺を試みるも直前に家内奴隷に制止された。また、自分の後継者と決めていたルキウス・アエリウス・カエサル (Lucius Aelius) が138年1月に死去するという悲運もあったが、翌月にはアントニヌスを養子とし、自らの後継とした。138年7月、バイアエ(Baiae)の別荘において62歳で没した。

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『世界史の叡智 - 勇気、寛容、先見性の51人に学ぶ』 本村凌二/著 中央公論新社 2013年発行
ハドリアヌス 人気がなかった名皇帝 (一部抜粋しています)
日本人の手で制作された武内英樹監督の映画「テルマエ・ロマエ」が2012年4月に公開された。ヤマザキマリさんの大人気漫画を原作とするが、漫画と同様に映画もなかなかのできばえである。世界史上、こよなく風呂を愛することで共通するローマ人と日本人。漫画も映画も目のつけ所よしというわけだ。
ところで、物語の舞台となるのが、2世紀前半のハドリアヌス帝の治世である。パクス・ローマ(ローマの平和)を体現した5賢帝の3人目であり、前任者トラヤヌス帝の時代にローマ帝国の版図は最大になっている。しかしながら、後継者ハドリアヌスはできるかぎり戦争を避け、領土の一部を放棄して、内政の充実に努めた。
治世20年余りの大半を属州の視察に費やすほどだったから、口の悪い詩人から揶揄(やゆ)されている。
「私は皇帝なんぞになりたくない。ブリトン人の間をさまよい、あちこちをこそこそ歩き回り、遊牧民の住む寒冷地の冬を耐え忍ぶのはご免だ」
ところが皇帝も黙っていない。
「私は詩人なんぞになりたくない。居酒屋をさまよい、大衆食堂をこそこそ歩き回り、丸々太った虫けらどもを耐え忍ぶのはご免だ」
厳(いか)めしく絶大な権力者を想像しがちだが、ローマ皇帝には意外にも庶民的な一面があったことはほほえましい。
戦いよりも芸術と文化を好み、とりわけ建築に異常な執念を燃やしたという。ローマ市街に残るパンテオン(万神殿)はハドリアヌス亭によって再建されている。ところが、今日でも正面に掲げられた碑文には「アグリッパが3度目の執政官のとき建立した」と刻まれている。
アグリッパは初代皇帝アウグストゥスの側近であり、もはや百数十年前に亡くなった人である。彼によって最初のパンテオンが創建され、その後、幾度か地震や火災で崩壊しているのだ。だが、あの壮麗なパンテオンを現在でも目にすることができるのはハドリアヌス帝の再建のおかげなのである。皇帝はそのことには一言もふれず、あくまでも創健者を立てる。その姿勢は、思慮深く奥ゆかしいと言うほかはない。
さすがに5賢帝の1人と叫びたくなるが、彼は5人のなかでは同時代人に最も人気のない皇帝であった。ときには有力者を粛清し、晩年になるほど猜疑心に凝り固まっていたという。妻を毒殺しようとしたという風評さえあったほどだ。思いやりと教養豊かな賢帝であるとともに、ネロ帝にも似た暴君のごとき資質ももつ複雑な人物だった。

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