じじぃの「歴史・思想_01_世界史大図鑑・ペリクレス」

4 Parthenon and Pericles

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QZ4TAFfjIRg

ペリクレスとパルテノン

ペリクレス

ウィキペディアWikipedia) より
ペリクレス(紀元前495年ごろ - 紀元前429年)は、古代アテナイの政治家であり、アテナイの最盛期を築き上げた重鎮として有名である。また、彼と愛人アスパシアとの間に生まれた庶子で、後に軍人になった小ペリクレスと区別して大ペリクレスとも呼ばれる。
ペリクレスの父は紀元前479年のミュカレの戦いの指揮官クサンティッポス、母はクレイステネスの姪であり、アナクサゴラスの弟子でもあった。
紀元前462年、ペリクレスは貴族派のキモンが出征中の不在を狙って、民主派のエフィアルテスとともにアレオパゴス会議の実権を奪って、全アテナイ市民による政治参加を促進した。翌年、キモンが陶片追放によって正式に国外追放されると、以後アテナイの最高権力者の地位を独占した。前444年から430年までの15年間、ペリクレスは毎年連続ストラテゴス=「将軍職」に選出され、アテナイに全盛時代をもたらした。また、キモンが古来からの領地による富の再配分を行なっていたのに対し、ペリクレスは自ら積極的にアゴラでの売買を行ない、アテナイが商業的なアゴラを推進するきっかけともなった。
【名言】
ペリクレスは演説において以下のようなやや美化された表現でアテナイやその国政を賞賛している。
・「アテナイの住民は富を追求する。しかしそれは可能性を保持するためであって、愚かしくも虚栄に酔いしれるためではない」
・「貧しいことは恥ずべきことではない。しかし、その貧しさから脱しようと努めず、安住することこそ恥ずべきことであるとアテナイ人は考える」
・「アテナイの住民は私的な利益を尊重するが、それは公的利益への関心を高めるためでもある。なぜなら私益追求を目的として培われた能力であっても、公的な活動に応用可能であるからだ」
・「時の言うことをよく聴け。時はもっとも賢明なる法律顧問なり」
・「アテナイでは政治に関心を持たない者は市民として意味を持たないものとされる」

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『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

政体は少数者ではなく多数者の手にある アテネの民主主義(紀元前507年ごろ)

ペリクレス より

ペリクレス(紀元前495年ごろ~429年)はアテネの最も有名な民主主義者であり、30年にわたってアテネ都市国家の指導者として活躍した。
紀元前462年ごろに、政治家エフィアルテスを助けて寡頭支配の最後の砦アレオバゴスを解体し、名を知られるようになったペリクレスは、エフィアルテスの死後、さらに改革をおこなった。そのなかには法廷でつとめを果たす者に報酬を与えるというものもあり、どんな貧しい市民でも意見を表明できるようになった。
ペリクレスはまた、アテネデロス同盟で支配的な位置にあるのを利用して、強硬な対外政策を推進したとも考えられている。
紀元前440年代から430年代にかけては、野心的な公共建築事業に携わり、国内で論議を呼んだが、反対勢力を鎮圧した。国外でも、デロス同盟の資金を徴発してパルテノンの費用をまかなっていると非難され、論争を巻き起こしている。だがペリクレスは人気があり、紀元前443年から毎年、将軍に選出された。

民主主義の凋落 より

ペロポネソス戦争(紀元前431~404年)でアテネは最終的にスパルタに敗れるが、この戦争のあいだにアテネの民主主義は紀元前411年と404年の2回、停止された。寡頭支配者たちが、アテネの立場の弱さは民主主義のせいだと主張し、民主的統治から極端な寡頭制へ移行しようとする反革命を主導したからだ。どちらの場合も、1年以内に民主的統治が回復した。
民主主義はその後、80年にわたって栄えた。しかし、フィリッポス2世と息子のアレクサンドロス(のちのアレクサンドロス大王)のもと、紀元前322年にマケドニアアテネを征服すると、アテネの民主主義は廃止された。ヘレニズム期には、紀元前1世紀と2世紀に民主主義が断続的に復活したが、紀元前146年にローマがギリシャを征服すると、事実上ついえた。