じじぃの「人の死にざま_1493_ペリクレス(民主主義)」

The history of ancient Greece 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=E-Mgb1mav_U
アテネの政治家ペリクレス

ペリクレス ウィキペディアWikipedia)』より
ペリクレス(紀元前495年? - 紀元前429年)は、古代アテナイの政治家であり、アテナイの最盛期を築き上げた政治家として有名である。また、彼と愛人アスパシアとの間に生まれた庶子で、後に軍人になった小ペリクレスと区別して大ペリクレスとも呼ばれる。
ペリクレスの父は紀元前479年のミュカレの戦いの指揮官クサンティッポス、母はクレイステネスの姪であり、アナクサゴラスの弟子でもあった。
紀元前462年、ペリクレスは貴族派のキモンが出征中の不在を狙って、民主派のエフィアルテス(英語版)とともにアレオパゴス会議の実権を奪って、全アテナイ市民による政治参加を促進した。翌年、キモンが陶片追放によって正式に国外追放されると、以後アテナイの最高権力者の地位を独占した。前444年から430年までの15年間、ペリクレスは毎年連続strategosストラテゴス=「将軍職」に選出され、アテナイに全盛時代をもたらした。また、キモンが古来からの領地による富の再配分を行なっていたのに対し、ペリクレスは自ら積極的にアゴラでの売買を行ない、アテナイが商業的なアゴラを推進するきっかけともなった。

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『人類の歴史を変えた8つのできごとII――民主主義・報道機関・産業革命原子爆弾編』 眞淳平/著 岩波ジュニア新書 2012年発行
民主主義の登場
クレイステネスの改革から16年ほど経った紀元前492年。
歩み始めたばかりのアテナイの民主主義を脅かす、一大事件が起きます。
それが、アジアの大国ペルシャの攻撃と、それによるペルシャ戦争の勃発です。
この時期、アケメネス朝ペルシャは、国王ダレイオス1世の下で、中東一帯を支配下に置きます。そしてその戦いに乗り、ギリシャの諸都市に攻め込んできたのです。
これに対してアテナイは、軍を派遣して迎え撃ちます。それはあたかも、国王の支配する専制国家と、市民が政治をつかさどる民主主義国家の戦い、とでもいう様相を呈しました。市民は、軍の諸部隊に配属され、自国アテナイと民主主義を守るために戦ったのです。
最終的に、あてないとその同盟国であるギリシャの諸都市は、10年以上もつづいたペルシャの攻撃を退けます。紀元前479年のことでした。
それによってアテナイは、芽生えたばかりの民主主義を守り抜き、文字通りギリシャ諸国の盟主の座を確立したのです。アテナイは、そののち半世紀の間、絶頂期を謳歌しました。
この時期、アテナイの民主制の進展に力を注いだのが、政治家のペリクレスです。
たとえば当時、アテナイには、「アレオパゴス評議会」と呼ばれる貴族の長老会議が存在し、この機関が、役人の違法行為や国事に関する重罪犯などを裁く権利を持っていました。
これに対してペリクレスらは、保守派のライバルの不在中をねらい、アレオパゴス評議会から多くの権限を奪って、民会や五百人評議会、民衆裁判所などといった市民が管轄する諸機関に、その権限を移したのです。ある意味では、革命に近い事件だといってよいでしょう。
アテナイにおける民主制は、この「ペリクレスの改革」において、一応の完成を見たとされています。