じじぃの「人の死にざま_1513_エーリッヒ・ホーネッカー(東ドイツ議長)」

共産主義の崩壊 The downfall of communism 1989年 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VhxioWMZeYk
Die Berliner Mauer 1988 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JhaoDe6cdK8
エーリッヒ・ホーネッカー ウィキペディアWikipedia)より
エーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker, 1912年8月25日 - 1994年5月29日)は、ドイツ民主共和国旧東ドイツ)の政治家。ドイツ民主共和国第3代国家評議会議長(在任:1976年 - 1989年)およびドイツ社会主義統一党書記長。1989年の東欧革命で失脚した。

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『医学探偵の歴史事件簿 ファイル2』 小長谷正明/著 岩波新書 2015年発行
東独ホーネッカー議長の胆石とベルリンの壁崩壊 (一部抜粋しています)
2006年夏、ベルリン郊外のポツダムを訪れ、啓蒙君主と言われたフリードリヒ大王のサン・スーン宮殿と、第二次世界大戦ポツダム宣言が発せられたツェツィリエンホーフを巡った。ふと見ると、郊外電車の駅脇のショッピングセンターに「回想のDDR」という横断幕がかかっている。15年も前に消滅した共産主義東ドイツDDRドイツ民主共和国)を懐かしんでいたのだ。
1980年代、東欧諸国に民主化の機運が高まり、88年1月のソ連ゴルバチョフ書記長によるペレストロイカの提唱は、そのうねりを一掃高めていた。89年6月には北京で天安門事件があり、日本人の耳目はそちらに向いていたが、同じころにポーランドでは共産主義政党の一党独裁体制が崩れ、複数の政党による民主主義政治へと移行した。
8月、東ドイツの市民がハンガリー経由で西ドイツへ大量に脱出したことが報じられた。そのころ、筆者は所属していた大学の医局に息苦しさを感じていたので、東側ブロックの人たちの動きに共感しながらニュースを追っていた。11月、革ジャンバーの若者がベルリンの壁に大ハンマーを打ち付けるたびに、筆者の腕にも力が入ったものだ。
この一連の出来事の中で、長年にわたって東ドイツのトップだったホーネッカー国家評議会議長の影が薄い。書物でも、政府は情勢に対処できずに破局に至ったように書かれている。おそらく大筋はそうなのだろうが、どこかしっくりしない。
1911年生まれのエーリッヒ・ホーネッカーは10代で共産党員となり、ナチス・ドイツ時代に政治犯として拘束され、10年の懲役を宣告されたが、敗戦の混乱に乗じて脱走した。その後は、有能な若手党員として頭角を現し、1961年夏に東西ベルリンを隔てる壁の構築を指揮した。1970年、長らく東ドイツの独裁者であったウルブリヒトを権力闘争の末、退陣に追いこんだ。
東ドイツの頂点に昇ったホーネッカーは、ソ連の顔色をうかがいながらも徐々に西ドイツとの対話路線に転じ、経済と国民生活に主眼を置く政策は成果を挙げた。東欧随一の生活水準で、「社会主義の優等生」「東ヨーロッパの日本」などと称賛を浴びた。しかし、国内の締め付けは厳しかった。
1989年7月7日、ルーマニアの首都ブカレストワルシャワ条約機構の首脳会議が行われた。ホーネッカーは演説を終えた後に突然腹部の疝痛発作を起こし、議論にはほとんど参加できなくなった。
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ショプロン事件(ハンガリー領ショプロンで開かれた政治集会)の後も、西側への脱出を試みる東ドイツの人々がつぎつぎとハンガリーの首都ブダペストチェコスロバキアプラハに押し寄せた。人々が駆け込んだ西ドイツ大使館や教会はごった返した。にもかかわらず、東ドイツ政府の動きは鈍く、 洪手傍観のありさまであった。
9月11日、ハンガリーは東の市民の西側への逃亡を防ぐ東ドイツとの間の協定を破棄した。強面ホーネッカー不在の事態に、東ドイツへの気兼ねを失くしていたのだ。
9月20日、ホーネッカー議長は6週間の休養から復帰したと報道された。そして、人々に健在ぶりをアピールしようとしたが、療養中に現実感を欠如したのか、高齢者の病み上がりで体力気力が萎えていたのか、当事者能力がないのは明らかであった。いや、病み上がりでなくても、長年にわたって共産主義に凝り固まった頭脳は、自由と民主主義を求める民衆の願いを柔軟に取り込むことはできなかったに違いない。
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11月9日、ベルリンの壁が崩壊する。
1990年10月3日、ドイツ民主共和国消滅。ホーネッカー、冷戦時代の責任で訴追される。
1991年3月31日、ホーネッカー、ソ連に亡命。同年12月25日、ソ連崩壊。
1992年7月29日、ホーネッカー、ドイツへ送還。
1993年、ホーネッカーがん罹患を理由に免訴され、娘がいるチリに出国。
1994年5月29日、エーリッヒ・ホーネッカー、亡命先のチリ、サンチャゴで悪性腫瘍にて死亡。