じじぃの「科学・芸術_796_アイブル・アイベスフェルト『愛と憎しみ』」

【映画 予告編】 エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=n8u3IoSreJM

Liebe und Hab

『これからの本の話をしよう』

萩野正昭/著 晶文社 2019年発行

リアルな現実は時間をともなう より

『愛と憎しみ』というドイツの動物学者アイブル・アイベスフェルトが書いた本がある。マックスプランク動物行動研究所に所属する学者だった。ドイツには昔からの映像のアーカイブ「エンサイクロペディア・シネマ・グラフィカ(Encyclopedia Cinematographica)」があり(現在は解散している)、自然、動物、人間など、多岐にわたる映像記録を保存していた。マックスプランク動物行動研究所はアーカイブへの有力な映像提供者でもあった。
アイベスフェルトは、「すり込み理論」の権威、ノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツの愛弟子だった。彼は来日したことがある。1970年の終わりのころだったと思う。彼が東京・赤坂のゲーテ・インスティテュートで見せたフィルムは、はっきりと私の脳裏に焼き付けられている。
アイベスフェルトは人間の表情を正確にカメラに収めるために、人がカメラにたじろがない工夫を考えた。正面からカメラを向けられて平気な人はいないだろう。それでは自然な振る舞いが記録できない。そこで彼はレンズの先に45度の角度でミラーを取りつけて、レンジが向けられる方向とは別の場所にいる対象を撮影しようとした。
その日、このカメラで撮影された人たちの表情が次から次へと映写された。世界のいろんな地域の人種、どれも10秒か20秒ぐらいの短いワンショットだ。人が人と出会ってふと表情を変える、合図する、挨拶をする。カメラはそのときの微細な人の表情をくまなく見せた。アフリカ、ヨーロッパ、日本……地域や民族の違いにもかかわらず、挨拶するとき現われる共通するものが見てとれる。表現・表情の大小はあっても、挨拶の瞬間には、かならず眉毛をピッと上げる。ある信号を相手に送っている。そして続けて動物の例も引用される。サルやヒヒ、まったく同じなのだ。
これはムービー映像である。時間が止まっているわけではない。しかし、何の作為も編集もない。人の顔が大写しになる。眉毛がピッと上がってまた戻る。また違う顔が大写しになる。眉毛がピッと上がって戻る。その繰り返しなのだ。そしてアイベスフェルトは顔が現われるたびに、「眉をよく見て……」と一言、判で押したように私たちに言った。
ただ繰りかえされる人や動物のまったく同じ行動を私は凝視した。これほどまでに食い入るように映像を見たことはなかった。そう言ってもいいくらいだった。映像の深い意味合いとパワーを感じる思いだった。
けれど、そのままに投影される事実を見つめて、眉毛がピッと上がる、ただそれだけのことに私がこれほどまでに反応するのには、「眉をよく見て……」と発する、これに心血を注いで研究してきた人の言葉があったからだった。
アイベスフェルトの『愛と憎しみ』という本には、彼が自分で撮影したフィルムの抜き焼きが、そのまま印刷されている。本に印刷されている以上、フィルムの形態を残しているとは言えないが、そこから抜き出したことは明らかである。印刷された紙面はフィルムとしての機能を発揮することはない。時間を止められた写真としてそこにプリントされているにすぎない。この本に印刷されたフィルムからの引き抜きコマ片、そして実際に投影されたムービー映像、さらにまた私がその場に座り直接に耳にし、目にしたアイベスフェルトの一挙手一投足は、国立がんセンターの乳白色のライトボックスに貼り付けられた棒焼きフィルムを思い出させる。そして、それを指さしていた医師たちの姿を。