じじぃの「科学・芸術_766_朝鮮・金大中・盧泰愚政権」

金大中政権 南北首脳会談

盧泰愚/ノテウ

世界史の窓
ノテウ。韓国の軍人で第13代大統領(在任1988~93)。平和的な国民の直接選挙で選出された大統領であったが軍人出身としては全斗煥の新軍部政権を継承した。しかし退任後に収賄などの不正を追及され、有罪となって収監された。
全斗煥と同じく陸士十一期生グループの軍人で、1979年の朴正煕大統領射殺事件を機に台頭。全斗煥大統領を補佐して政権に関与した。1987年の6月民主抗争の大市民デモで全大統領が退任、憲法が改正されて国民の直接選挙となったときに立候補、民主化運動側は金大中と金泳三が並立したため票が割れ、盧泰愚がわずか36.6%の得票率で当選した。
盧泰愚大統領時代には経済成長も続き、ソウルオリンピックを開催(88年)し、またドイツ統一、冷戦終結の世界的流れの中で91年には南北朝鮮が同時に国際連合に加盟した。並行して1990年にはソ連を、ついで92年には中華人民共和国を承認した。民主化運動も進み、88年には前大統領の全斗煥の不正蓄財が追及され、光州事件の実態も次第に明らかになってきた。
1992年の大統領選挙では金泳三が大統領に当選、この文民政権のもとで、全斗煥盧泰愚の2代続いた新軍部政権の不正や人権侵害の追及が始まり、盧泰愚は1995年に逮捕され、97年には収賄罪で有罪の判決が出て懲役17年、追徴金2268億ウォンとされ収監された(全斗煥と同じく、特赦で釈放された)。
https://www.y-history.net/appendix/wh1703-055.html

朝鮮史 (世界各国史2)』

武田幸男/著 山川出版社 2000年発行

経済建設と国際化の進展 より

盧泰愚政権の時代には韓国の国際的地位の向上が目立つようになった。1988年9月に開かれたソウル・オリンピックには160ヵ国が参加し、久しぶりに出場をボイコットする国もなく、成功裏に運営した韓国の力量への評価が高まった。また、社会主義圏との「北方外交」が展開され、89年のハンガリーを皮切りに90年のソ連にいたるまで、国交や貿易関係の樹立があいついだ。92年にはアジア社会主義国の中国、ベトナムとも国交が開かれた。
経済面では1988年にIMF8条国に移行して国際収支改善のための為替管理が認められなくなり、89年にはGATT(関税貿易一般協定)11条国に移行して同じく貿易制限が認められなくなるなど、発展途上国としての優遇措置を返上する動きが続いた。
北朝鮮との交流も、在野勢力の秘密訪朝によって活発化した。1988年には平和民主党の徐敬元国会議員、89年には反政府運動指導者の文益換牧師がそれぞれ平壌金日成と会見し、89年に平壌で開かれた世界青年学生祭にも全国大学生代表協議会の代表が派遣された。しかし政府は、大韓航空機テロ事件で冷えきった対北朝鮮関係を修復できず、ソウル・オリンピックの北朝鮮の参加も実現しなかった。
やがて東欧の社会主義体制が崩壊し、東西ドイツの統一が実現するなど国際情勢が大きく変化すると、1990年にははじめての南北首相会議が開かれた。会談では双方の対立点が目立ったが、並行して南北のサッカー試合がおこなわれるなど多方面で交流が進んだ。そして91年に国連への南北同時加盟が実現した。さらに91年末には、和解と不可侵および交流協力にかんする合意書、非核化にかんする共同宣言が成立し、一時的に南北の和解が進んだ。
     ・
1998年2月に第15代大統領として金大中が就任した。金大中が金泳三と同じく一貫して野党政治家として活躍し、朴政権のもとでは東京から拉致されて殺害されかかり、金政権時代には死刑判決を受けた。しかし、一方でアメリカとの関係は良好で、日本にも知人が多かった。
金大統領は就任以前から、経済危機に対応する政策形成に関与していたが、2月に新政権が発足すると、公安・軍事部門の責任者を入れ替えて自らの地盤とする全羅道出身者で固めた。さらに、前政権の安全企画部長らが、北朝鮮と共謀して金大中の落選をはかったとして逮捕された。安全企画部はのちに改組され、国家情報院となった。また、国会では国民新党を吸収合併するなど多数派工作をおこない、自由民主連合と連立して過半数を確保した。しかし、自由民主連合名誉総裁を金鍾泌の首相任命は、野党ハンナラ党の猛烈な反対で実現できず、国会の承認を必要としない首相代理就任にとどまった。
政策面では最大の課題である経済危機に対処するため、財閥改革を進め、大宇は消滅し、現代も解体された。そして、構造改革を進めた三星・LGは、電子部門を中心として復活した。金融機関の改革では、合併や自己資本比率の向上で銀行の体質を強化し、高度成長時代に外資導入などで活躍した総合金融会社を整理するなど強力な政策を進めた。もうひとつのIMFとの合意である整理解雇制(レイオフ)にかんしては、2月に法改正を実現したが、政権の支持基盤であった労働組合から激しい反発を受け、小規模な解雇にとどまって労使政三者の痛み分けに終わった。
同時に、IMFとの合意に基づいて資本自由化による外資導入が進展し、日本や欧米からの直接投資が増加した。さらに、ベンチャー企業のために96年に創設された店頭株市場(コスダック)が99年から急成長するなど、景気回復とともに個人投資も増大した。
こうして、90年代いっぱいで、97年経済危機はほぼ克服された。もうひとつ金大中政権の特色となったのは、対外政策だった。北朝鮮にたいしてはイソップの「北風と太陽」にたとえた太陽政策(包容政策)を掲げ、和解と協力による対話の姿勢を堅持して、2000年6月には南北首脳会談を実現させた。こうした対北朝鮮政策が評価され、金大統領はノーベル平和賞を受賞した。また、98年10月に日本を訪問して「21世紀に向けたあらたな日韓パートナーシップのための行動計画」を作成し、日本からの投融資促進をはかった。さらに、日本の大衆文化流入を段階的に認める方針を示し、2002年のサッカー・ワールドカップ共催ともあいまって、日韓関係にあらたな局面を開いた。