じじぃの「科学・芸術_710_知られざるキューバ・庶民の暮らし」

Walking round a Cuban supermarket in Havana, Cuba 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=TTekAtIdfzg
Live in Cuba - Life in Cuba

『知られざるキューバ 外交官が見たキューバのリアル』 渡邉優/著 ベレ出版 2018年発行
革命前のキューバ より
キューバは1902年に名ばかりの独立を米国から与えられたが、現実には米国の植民地化であり、米国の傀儡政権・軍事独裁政権下、経済は米国資本に独占され、圧政と貧困に喘ぐ国であった。1959年にフィデル・カストを中心とする革新勢力により革命が成就し、新政権は医療や教育の無償化をはじめとする社会・教育政策面で大きな成果を挙げている……」。これがキューバで常識とされている見解で、革命前のキューバは悲惨な状況であったことが強調されます。革命前のキューバ共和国は、公式には「新植民地共和国」と呼ばれています。
革命前のキューバには経済的・政治的に米国の影響力が強く働いていたことは想像に難くありません。1941年12月9日、日米開戦の直後に、日本に何ら利害関係のないキューバが対日宣戦布告したのは、その証左の1つと言えましょう。しかし、経済的・社会的側面で国全体が本当に悲惨な状況だったのかについては、キューバに着任した直後から、この「公式見解」にちょっと違和感を感じてきました。
その理由の1つは、この「圧政と貧困に喘いでいる」はずのキューバにスペインや日本から多くの人々が移住していた事実です。1902年から1931年にかけてスペインからキューバに78万人が移住したと言われています。日本からブラジルへの移民が戦前戦後合わせて25万人ですから、これはとてつもない数字です。フィデル・カストの父親アンヘルカストロはスペイン軍の兵士としてキューバ独立勢力と戦い、スペインに戻った後1906年に自らの意思でキューバに移住したことはよく知られています。日本からキューバに移住した方々の多くは、革命前キューバの青年の縞(当時は松島と呼ばれていました)で花卉(かき)や果物栽培に従事したのです。「圧政と貧困に喘ぐ」国に誰が移住するでしょうか? 当時のキューバが、スペインや日本より豊かでチャンスに溢れた国と考えられていたのは明らかです。
モノ不足と庶民の対策 より
キューバのモノ不足を肌で感じるのはスーパーマーケットです。野菜と果物は野外の市場で、それ以外の生活の必需品はスーパーマーケットで買うのがキューバの買い物パターンです。そのスーパーでは、求めるものがほとんどないか、同じ製品が大量に山積みされているかのどちらかですが、何もない時の方が多いようです。山積みの品物は、実は全く同じ製品です。旧ソ連や昔の中華人民共和国を思い出します。最近、アンゴラ在勤経験のある新規着任館員から「キューバアンゴラよりモノがないですね」と言われてショックを受けました。かつて北朝鮮に住んだキューバ人から「ハバナよりへ平壌の方が生活物質はたくさんあるよ」と言われ、腰を抜かさんばかりに驚きました。
モノ不測のキューバでは、欲しいものを見たら躊躇せず、直ちに買うのが鉄則です。買い損ねたら二度とお目にかかれないかもしれないのです。キューバ人は皆、外出時には必ずポリ袋を携行して急な買い物に備えています。
新しいモノが入手できないのであれば、古いモノを大事に使うのも大切な生活の知恵です。いくつかエピソードをご紹介します。
(1) キューバの街中を走る自動車の多くが1950年代の米国車や70年〜80年代のソ連車です。
(2) 先日友人のテニスシューズの底がはがれてしまいました。あちこち新しいシューズを探したけれど売っていないので、靴底のゴムを張り直して修理してもらい、その後もずっと使っています。
(3) 私たち外国人がキューバに引っ越してくる時は、ダンボール箱は決して捨てません。帰国時にダンボール箱を使います。
(4) 先日、洗濯物干し台の足が壊れてしまいましたが、床掃除モップを活用して使っています。
(5) バーベキューセットを購入したのですが、よく見るとドラムカンの再利用でした。