じじぃの「科学・芸術_708_カント『純粋理性批判』」

カントの「コペルニクス的転回」

コペルニクス的転回とは コトバンク
カントが自己の認識論上の立場を表わすのに用いた言葉。
これまで,われわれの認識は対象に依拠すると考えられていたが,カントはこの考え方を逆転させて,対象の認識はわれわれの主観の構成によって初めて可能になるとし,この認識論上の立場の転回をコペルニクスによる天動説から地動説への転回にたとえた。

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『西洋哲学の10冊』 左近司祥子/著 岩波ジュニア新書 2009年発行
理性の運命を物語ろう カント 純粋理性批判 【執筆者】石川文康 より
イマヌエル・カント(1724 - 1804)
ドイツの東プロイセンケーニヒスベルク(現在はロシアのカリーニングラード)に生まれる。ケーニヒスベルク大学で哲学・自然学を学び、後年同大学の教授となる。彼の哲学は「コペルニクス的転回」と称される。哲学の歴史はカントに流れ込み、カントから流れ出ると言われる。主な著作に『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』などがある。
純粋理性批判』はまれに見る大作であるだけでなく、難解な哲学用語で埋めつくされた書です。困ったものです。そこでこの際、思い切って、ほとんどの専門用語を用いることをやめにして、最小限の用語だけを用いて、この書の哲学的精神を「物語る」ことに徹したちと思います。それをとおして、皆さんにはカント哲学の頂上を仰ぎ見ながら、裾野をトレッキングしてもらえれば幸いです。
さて「理性」と聞くと、皆さんはどういうイメージを抱くでしょうか。誰にも共通することは、マイナスのイメージはないということではないでしょうか。ところが、こうです。
「人間の理性はある種の認識において、特殊な運命をもっている。すなわち、理性が避けることもできず、答えることもできない問題に悩まされるということである」。
純粋理性批判』はこのような理性の嘆かわしい「運命」を告げるせりふから始まるのです。明らかにマイナスのイメージです。要するに、人間の理性は抜き差しならないトラブルをかかえているというのです。そのために、理性は一度は吟味にかけられなければなりません。すなわち、批判されなければなりません。人間の認識能力の中で最上級と見なされ、無条件に前提され、真理や善の最終的なよりどころとされてきた理性が、いわば訴えられたのは、長い哲学の歴史はおろか、人類の英知の歴史の中でもはじめてのことです。少なくとも、理性が徹底的に体系的に吟味にかけられたのははじめてのことです。
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よく「才能か努力か」と、2つに1つのように考えられがちですが、実際にはどんな才能もそれを研く努力がなければ発揮されないのです。たとえば、イチローは打撃の天才といわれますが、それでは、彼はまったく打撃練習を行わずに、自分の才能を開花させたのでしょうか。そうではありません。彼は人一倍努力を重ねて素質を研き、輝かしい記録を打ち立てたのです。
同じように、「素質としての形而上学」は、混乱と争いの状態を脱却するために、本来の学問、すなわち「学問としての形而上学」となる努力をしなければなりません。それがまた、理性の関心でもあります。そのための最初の手続きが『純粋理性批判』に他なりません。
そのために、カントは人間の認識を構成する基礎的エレメントの分析を開始します。
人間の認識能力は理性だけではありません。広い意味での理性の対概念を「感性」といいます。感性とは、見たり、聞いたり、触れたりして、直接に感覚データを受け取る能力の総称です。その意味で、われわれの感性が働く仕方を「直観」といいます。すなわち、視覚、聴覚、その他もれっきとした認識能力なのです。それらはわれわれに感覚データを、認識の素材として与えてくれる唯一のものです。素材がなければ認識は無内容なのです。問題は、どんな感覚能力としてであれ、感性が機能するための形式的条件、要するに感性の基礎的エレメントです。それをカントは、「時間」と「空間」としました。というのは、どの感覚能力によるどんなデータも、時間(いつ)・空間(どこ)において以外には与えられないからです。その意味で、時間と空間はわれわれの感性のアプリオリな形式です。「アプリオリ」とは「経験に先立つ」ことをいいますが、それは「普遍的」な学問的認識の条件なのです。なぜなら、逆に、経験に由来するものには、普遍的も必然性も期待できないからです。
ところで、時間・空間が感性の形式だということは、それらが一般に考えられているような、認識される客体の持つ性質でなく、認識するわれわれの主体に属する性質であることを意味します。とすると、ここで一挙に主客が転倒し、認識される客体は、すでにわれわれの性質が刻印されたものとなります。アプリオリな認識が可能となるためには、どうしてもそうでなければなりません。これを、カントのコペルニクス的転回」といいます。