じじぃの「メソポタミア文明・シュメール人はどんな人たちだったのか?パレオマニア」

Treasures From The Royal Tombs of Ur - Revised 1999 動画 Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=XZS-Hbyupto
シュメール人

藪の中の牡山羊

シュメール神話 ウィキペディアWikipedia) より
シュメールの神話はシュメールの神話である。メソポタミア神話全体に大きく影響を与え、フルリ人、アッカドバビロニアアッシリアの神話、その他の文化に引き継がれた。
楔形文字の発明
文字の発明までのシュメール神話は口承によって語り継がれてきた。初期のシュメールの楔形文字は記録手段にすぎなかったが、初期王朝時代(early dynastic period)になると賛歌という形の宗教文学に、そしてナム・シュブ(nam-sub)と呼ばれるまじないに使われるようになった。

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ヨーロッパ諸語のルーツは東欧。DNA分析で判明 2015.03.06 ナショナルジオグラフィック日本版サイト
ヨーロッパ大陸全域で話されている言語のルーツはどこにあるのか。このほど行われたDNA分析で、約4500年前、現在のロシアとウクライナにまたがる草原地帯から移動してきた牧畜民が使った言語がルーツとする説が発表された。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150305/438058/
『パレオマニア 大英博物館からの13の旅』 池澤夏樹/著 集英社文庫 2008年発行
イラク篇 過去は現在であるか より
大英博物館で最も量的に多くて人気も高いのがギリシャとエジプトからもたらされた収蔵品であるのは誰もが認めるところだ。ここにはエルギン・マーブルやロゼッタ・ストーンのような至高の名品があって、それをとりまく品々の数も質も超一流。
それに次ぐのがメソポタミアであるという主張に異論は出ないだろう。実際、1階の第6室から第9室までにはアッシリアの巨大な彫像やレリーフが並び、2階の第55室と第56室にはシュメールとアッシリアの細密な細工を誇る工芸品や楔形文字を刻んだ粘土板文書が展示されている。
だから男がメソポタミアに行ってみたいと考えたのは当然のことだ。
しかし、これが容易なことではない。子だ斧メソポタミアは現在はイラクの領土であって、ここは政治的な理由からとても入りにくい国なのだ。
それではしかたがないと思って男が諦めていたところ、事態が変わったという情報が伝えられた。イラクが観光客の入国を認めるようになった! 戦争が近いというが、まだ始まったわけではない。男はヴィザを取得し、イラクに向かった。
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かくて男はイラクに行った。
ウルとウルクは共にシュメール文明の都市の遺跡である。名が似ているから混乱するが、それぞれに独立した遺跡。
まずは、ウルクを目指す。首都バグダッドから国道を車で4時間ほど南へ走って脇道をさらに1時間ほど行ったところ。
この脇道に沿ったあたりは乾燥した土地で、道の脇に「ところどころ数件の家が並ぶ。道路にほぼ沿う形で水路が伸びているから、季節によっては畑作が行なわれるのだろうか。そのときは空っぽの平地が延々と地平性まで広がるばかりだった。
ドライバー兼ガイドのラヤンが左の方を指さして、「あそこですよ」と言った。一直線とも見える地平線の一部に小さな突起があるのを示して、「ウルフのジッグラト」と重ねて言う。
ジッグラトを塔と訳すと、どうも感じが違う。最も似ているのはエジプトのピラミッドで、それも初期の階段上のピラミッドはもう少し形を整えればメソポタミアのジッグラトになる。四角くきちんと造られた人工の丘のよう。ピラミッドは本来登るものではないが、ジッグラトにはかならず階段があって、最上階には祭室があったと学者は言う。
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翌日、ウルに行った。
ここのジッグラトはもともと保存状態がよかったのを丁寧に修復したから、とても立派なものだ。しかし、ウルで男が最も見たかったのは王族の墓である。あの「藪の中の牡山羊」をはじめとする見事な細工の品々が高貴な人々の遺骸と共に埋まっていたところだ。
実際には墓地はジッグラトから300メートルほど南の方にあった。ここには全部で17の墓があって、多くの人骨や家畜の骨、副葬品が掘り出された。
行ってみると、地面が四角く切り込まれ、数メートル下に横穴の入り口が見えた。そこまで下りてゆくことはできない。横穴の天井部は左右から少しずつ迫り出した焼結煉瓦の擬似アーチによって支えられている。男はその場に坐り込んで、地面の下の闇を見た。闇の奥を見た。
ここの発掘は1920年代にイギリスの考古学者レナード・ウーリーによって行われた。参考書によると、この人は20世紀の考古学者の中でもとりわけ立派な人物だったらしい。業績が大きいだけでなく、時には何年も待った上で遺物の価値を損なうことなく掘り出すなど、方法が慎重で科学的だった。しかも日頃のふるまいもまことの紳士であったという。
この王や王女たちの墓にはちょっとしたスキャンダルがつきまとう。この時期のシュメールにはどうやら殉死の習慣があったらしい。
800という番号をふられた墓から、シュメール語で「シュブ・アド」、アッカド語ならば「プ・アビ」と読まれ、どちらの言語でも「我が言葉の父」という意味を持つ名の印章が出てきた。奥の方に安置された遺骸の肩に置いてあったのだから、これがこの墓の主である女性の名と推測される。彼女は独りではなかった。多くの豪華な副葬品ばかりか、5名の兵士と23名の侍女の遺体が彼女を取り巻いていた。
その隣にある789の墓は彼女の夫と推定されるアバラーギなる人物の墓であるらしいのだが、ここには63名の殉死者がいた。また、男が大英博物館で目を奪われた「藪の中の牡山羊」が出土した1237の墓は、6名の兵士と68名の侍女という。最も多くの死者を眠らせていた。この女性のうちの4名は堅琴の奏者であるらしく、楽器を身近に置いて死んでいた。
彼女たちは死を自分の運命と信じて悠然とこの墓所に入ったらしい。死は暴力的にではなく、致死量のアヘンかハシシュを自ら服用することによって穏やかに訪れた。しかも、静かに横になった侍女たちが息絶えた後で、そっと入ってきて遺体を整えた形跡さえある。その傍らに「藪の中の牡山羊」が置かれたのだろうか。時が過ぎても墓所を侵して貴重な副葬品を盗む者はいなかった。死者たちは静かに数千年眠りつづけた。
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シュメールはすばらしい。今は広漠たるウルの遺跡に立っていてもそれはわかる。ここが始まりだったのだ。シュメール人は、文字を発明し、行政と政治のシステムを作り、法や正義や教育、医療などを創造した。そのすべてが文献によって今に伝わっている。
これらの背後にあるのはたぶん精神と言う概念だ。新石器時代から神話の形で人はさまざまな抽象思考を積み上げてきた。いわば人は脳の中にジッグラトを造り、言葉の発明によってそれを相互に交換し、文字の発明によってその領域を格段に広げた。

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どうでもいい、じじぃの日記。
「シュメールはすばらしい。今は広漠たるウルの遺跡に立っていてもそれはわかる。ここが始まりだったのだ。シュメール人は、文字を発明し、行政と政治のシステムを作り、法や正義や教育、医療などを創造した」
シュメール人というのは、インド・ヨーロッパ語族の祖先といわれ、古代メソポタミアの人々と古代インドの人々は同族だった。
シュメール人でも古代インド人でも位が高いのは僧侶だったようだ。
みんな賢そうな顔立ちをしています。