じじぃの「神話伝説_121_シュメール人(メソポタミア文明)」

Mesopotamia Sumerians, first civilization on earth. 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=MKRo4YI-MaI
Royal Tombs of Ur 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Z4uuoHc6k9w
シュメール文明の謎 Zecharia Sitchin Sumeru 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=tR4vZnA5aXw
シュメール人が愛したラピス・ラズリ

首飾りに円筒印章は?2 忘れへんうちに
首飾りのビーズ玉 前2千年紀初頭 テロー出土 瑪瑙、紅玉髄、水晶、ラピスラズリ 長左:約16.5㎝ 右:約11㎝ ルーヴル美術館
メソポタミア文明展図録』は、この2つの首飾りは、鐶で小さなレンズ状の宝石を吊り下げている。きわめて高純度の水晶を加工した玉もある。これらの宝飾品の一つはテローの墓から見つかったという。
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009_08_01_archive.html
『シュメール文明―古代メソポタミア文明の源流』 ヘルムート・ウーリッヒ/著、戸叶勝也/訳 佑学社 1979年発行
最初の世界――シュメール人セム人―― より
もしわれわれが世界という言葉を、地球という概念ではなくて、人間の存在と勤勉によって変革を受けた自然という意味に理解するならば、この地球上には紀元前3000年頃、メソポタミアに最初の世界が生まれたことになる。我々としては古代オリエントの世界をこのような意味で理解しているのだ。それは古代ギリシャの世界やイタリア・ルネサンスの世界よりもはるかに空間的に密度の高い世界であった。しかもこの2つとは重要な点で共通性をもっていた。つまりそれはほぼ1000年の長きにわたって――ヨーロッパの子孫よりはるかに長い――互いに対立し合う都市国家の並存した世界であった。ギリシャにおいては、シュメールの2000年後になお都市の守護神――アテネにおけるアテナ神殿の如き――が存在しており、またメソポタミアジグラットに似た、丘の上にそそり立つ神々の神殿アクロポリスが見られる。
シュメールの都市の中央部は、急速に拡張し、しかも特殊な生活様式へと発展する都市性の萌芽となった。5000年前のメソポタミアに発生したすべての文明の要素は、町の特殊な生活条件に依存していた。我々はそうしたものを再び、紀元前6世紀のアテネと紀元1400年頃のフィレンツェに見ることとなる。ヨーロッパ中世の如何なる都市も多分、同時代のエジプトやクレタ島の構築物よりもむしろ古代シュメール諸都市の外観や営みに似ていたようだ。そこには生活があの世に向けられており、また極めて宗教的な様式によって規制されていた。しかもそこに住む個人にとっては、シュメール人の世界よりもはるかに小さな活動空間しか許されていなかった。
シュメールの黄金時代――5000年前の世界貿易―― より
我々は今日、鶏1ダースとか卵1ショック(=60)などと言っているが、この6を基本とした数え方(60進数)の源が一体どこなのか考えようともしないでいる。我々の文明の在庫品の多くがそうであるように、これも実はシュメール人の発明になるものなのだ。彼らシュメール人は、60進数を我々が慣れ親しんでいる10進数と巧みに組み合わせた。
書くことと計算をすること、この2つは同じ起源を持つものである。ものを確定する符号と、その量を記す数とは相関連したものである。それらは経済の基礎である。それらはつまり、経済的思考からすべての文化が始まったことを意味している。そういうと、物質的なものをあらゆる文化の敵と見做す人々にとっては、愉快には響かないかもしれない。ところがシュメールでは、文字の記された粘土板がそれとは正反対のことを立証しているのである。最も初期のテキストの多くは、売買契約書や引渡証、あるいは勘定書などである。
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複雑な計算を記した粘土板から、シュメール人が経済数学の領域で急速な進歩の跡を見せたことがわかる。彼らは古代の他の諸民族とは違って、必要なことだけでは満足せず、その知識を系統立って発展させていった。土地測量に関する厳密な記述をのせた粘土板には、幾何学上の符号が記されている。そして楔形文字による説明が付いているのであるが、それは如何に早い時期に人類が土地測量の秘密を知っていたかを、よく示すものである。
あらゆる知識階級――在庫品の記帳から数学を経て天文学に至る――でのこうした急速な発展の前提としては、知識の維持と後世への継続的な引継ぎが考えられる。このようにしてほぼ5000年前のシュメールに、人類最初の学校が誕生することとなった。
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文字がその実際的な起源から次第に様々な変形を生み出し、ついには文章文字へと簡素化されていったように、メソポタミアの公共生活の増大する実際的要請に応じて、知識の領域も拡大しその伝達手段も発達していった。複雑な事柄もはっきりと表現することのできる文字の進歩発達のおかげで、豊かになった知識はただちに文字の形で保存伝達することが可能となった。そして地理学、植物学、動物学、鉱物学、建築学およびその補助学問としての数学などが前面にでてきた。しかし何といっても中心となる学問は、言葉と文字であったし、そうあり続けた――これは次第に神学や文字によって補足されていった。
学問と実際的教育とはここでは分離していなかった。主として書くことと計算することから成立していた基礎課程を終えた段階で、生徒は自分の将来を決めることができる仕組みになっていた。つまり文字学者か教師乃至学者の道へ進むか、軍隊、宮廷、政界、神殿管理、芸術、外交あるいは経済などの世界で指導的役割を果す道へと進むか、生徒はこの段階で決定することができたのである。
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木材と並んでシュメールの職人にとって重要であったのは、メソポタミアには全く存在しない金属であった。しかしすでに紀元前4000年紀の末には金属加工が行われていた証拠が残っている。銅はエラム小アジアから、銀はクリミア地方から来た。すでにウル第1王朝の時代から見事な芸術的加工技術が施されていた金は、エジプト、小アジアおよびインドの各地から運ばれてきたものに違いない。
金属への需要とともに、装身具や高価な象眼細工に用いる貴金属への需要も増大した。紅玉髄、緑柱石、碧玉およびトルコ石と並んで、シュメール人がことさら愛好したのは、濃紺色に金色のまだらが混ったラピス・ラズリであった。しばしば200頭を上回ることもあった驢馬の隊商は、日に25キロメートル以上は進むことができなかったが、それでもこうした隊商によって遠くパミールアフガニスタン東部からこの高価な宝石は、メソポタミアの地へ運ばれてきたのであった。