じじぃの「科学・芸術_698_ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』」

What is Marxism? (Karl Marx + Super Mario Bros.) - 8-Bit Philosophy 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Vz3eOb6Yl1s
マルクスのゆかいな兄弟たち

マルクスの亡霊たち―負債状況=国家、喪の作業、新しいインターナショナル 2007/9 ジャック・デリダ (著), 増田 一夫 (翻訳)  amazon
「一つならずに亡霊化したマルクス」「マルクスに取り憑いた亡霊たち」を前にしての、マルクスの「純化」(=アルチュセール)と「脱政治化」(=単なるテクストとしてのマルクス)。
これらに抗し、マルクスの「壊乱的」(ブランショ)テクストの「切迫さ」(=マルクスの厳命)を、テクストのあり方そのものにおいて相続せんとする亡霊的、怪物的著作。シェークスピアの真価(The time is out of joint(時間の蝶番がはずれてしまった))を知りながら結局は亡霊を厄祓いするマルクスの限界にまで踏み込み、「憑在‐錯時性」にこそ、「遺産相続」「出来事・革命・他者の到来」「法を超えた正義」の条件を見出す、マルクス、そしてハイデガーの「存在‐時間」論との全面対決。

                        • -

『本当にわかる現代思想 フシギなくらい見えてくる!』 岡本裕一朗/著 日本実業出版社 2012年発行
ジャック・デリダ(1930 - 2004) 脱構築で階級秩序を転倒せよ より
1966年、アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学で「人間諸科学についての批評と言語」をテーマにしたコロキウムが開催された。その会議で、一人の青年が当時人気の戦ったレヴィ・ストロースを批判し、話題を独占してしまった。その青年が、ジャック・デリダである。この話には、さらにオマケがついている。デリダに話題が集まったために、出席していたラカンが激怒したらしい。この年、デリダは『エクリチュールと差異』『グラマトロジーについて』などを書き、現代思想界でポスト構造主義への移行が決定的になった。
デリダといって、最初に思い浮かぶのは「脱構築」だろう。脱構築が、デリダを超えて、ポスト構造主義、さらには現代思想の中心概念となっている。けれども、有名なわりには、その意味はあまり理解されていない。イメージとしてはカッコウいいが、いざ説明するとなると困ってしまう。フランス語風に表記すれば「デコンストシュクシオン」、英語風だと「ディコンストラクション」だが、「脱構築」をどう理解すればいいのだろうか。
この言葉は、もともとハイデガーの「解体(デストルクチオン)」から採られた。ハイデガーは否定的な「振り捨てる」とか「無への葬り去る」といった「破壊」から区別して、一つひとつの構成要素を歴史的な由来にさかのぼって「解体」することを提唱した。
これはニーチェ的に言えば、「系譜学」なのである。そしてハイデガーの「解体」を表現するために、デリダは「脱構築」と呼んだわけである。では、デリダは、何を解体=脱構築しようとするのだろうか。
デリダが解体=脱構築しようとしたのは、今日支配的となっている階層秩序である。たとえば、真理と虚偽、本質と見かけ、自然と人工などを考えるといい。これに、正常と異常、オリジナルとコピーを加えてもいい。こうした階層秩序では、いずれも前者が積極的に評価され、後者は副次的な位置に置かれている。一方が支配し、他方が従属する。こうした「階層秩序を転倒させる」ことが、まさに「脱構築」である。
     ・
デリダの思想的展開をたどると、後になるほど政治的な発言が多くなる。ただ、デリダに言わせると、もともとから彼の思想は政治的だったそうだ。そういえば、「脱構築」にしても、支配的な階層秩序を転倒することであり、まさに政治的だと考えることができるだろう。そこで、デリダの政治的な考えを取り出してみよう。
1993年アメリカの大学で、「マルクス主義はどこへ行くのか?」というコロキウムが開催され、デリダは基調講演を行っている。そのころ世界では、ソ連をはじめとした社会主義国が崩壊し、マルクスは死んだ」という合唱が繰り広げられていた。これに対して、デリダは「自分がマルクス主義者ではない」と言いつつ、共産主義の亡霊は「つねに来たるべきもの、再来すべきものであり続ける」と強調した。
もっとも、こう語ったとき、デリダがいかなる政治を思い描いていたかは、問題であろう。デリダは、「友愛の政治」「無条件の歓待」「無限の責任」など、さまざまな表現を使っているが、具体的にどうすればいいのかと考えると、必ずしも明確な答えが返ってこない。これがデリダの難しいところだ。