じじぃの「人の生きざま_681_安田・好弘(弁護士・オウム真理教)」

安田好弘

魚の目 安田好弘(やすだ よしひろ) 魚住 昭 責任総編集 ウェブマガジン
1947年12月4日、兵庫県生まれ。
弁護士(第二東京弁護士会)。一橋大学法学部卒業。
死刑廃止 FORUM 90 メンバー、アムネスティ会員、日本弁護士連合会死刑執行停止法等実行委員会委員。
1999年、死刑廃止運動への貢献が認められ、「多田謠子反権力人権賞」受賞。
最近では、オウム真理教麻原彰晃山口県光市の母子殺害事件の犯人らを弁護し、一貫して死刑廃止を訴えている。
オウム真理教の裁判にからんでは、自身も強制執行殺害容疑で逮捕されるが、一審で無罪となる。
http://uonome.jp/editors/yasuda-editors
『国家と神とマルクス自由主義保守主義者」かく語りき』 佐藤優/著 太陽企画出版 2007年発行
国家の意思とは何か (一部抜粋しています)
安田好弘『「生きる」という権利:麻原彰晃主任弁護人の手記』(講談社、2005年)を読み終えて、まず感じたのは、著者が人間に対してなんとやさしいまなざしをしているのかということだった。同時に、私がソ連崩壊後、ロシア、沿バルト諸国(エストニアラトビアリトアニア)、トランスコーカサス諸国(アゼルバイジャンアルメニアグルジア)における革命・内乱の過程で見たのは、やさしいまなざしをした人が結果として残虐な政治の支持者になることが多いという逆説だった。
このテキストのことば自体は読みやすい。しかし、内容を咀嚼することは容易ではない。おそらく筆者の安田氏自身は認識していないと思うガ、テキストが重層的になっているので、いく通りもの解釈が可能なのだ。
安田氏は、オウム真理教の教祖、殺人犯、過激派、爆弾犯など市民社会の常識では、即自的反発を買う人々の弁護を担当した特異な経歴をもつ人物で、しかも依頼人については麻原彰晃氏を含めて呼び捨てにせず、「麻原さん」と「さん付け」で呼ぶ弁護人としての倫理に忠実だ。この記述方式に違和感を感じ、入り口の時点で著者に反発を感じる読者が出ることが想定される。また、左翼(より正確には新左翼)系の術語や事件に関する記述が頻雑に出てくるので、この世界に身を置いた、もしくは関心をもっている人々以外には「安田ワールド」に入っていきにくい。
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安田氏にとって不本意であろうが、私は『「生きる」という権利』のテキストを読み進めるにつれて、楠木正成北畠親房などの南北朝時代南朝側武人・公家の論理を想起するのである。時に権力を徹底的に非難するが、その基盤には正統な漢力から不当な権力に対する批判というイデオロギーがある。権力自体を脱構築しようとする構えではない。これも安田氏は法律を武器に自己の反体制的言説を構築していることの必然的帰結なのだ。私はむしろ安田氏の隠された秩序感覚に好感をもっている。これは、私の理解では南朝イデオロギーに近いのである。
南朝のイデオローグ北畠親房は、足利幕府を弾劾し、自ら武器をとって戦った。しかし戦況は南朝側に不利で、無い線維敗れても自らの正統性をテキストとして残すために『神皇正統記』を著した。「大日本者神国也(おおやまとはかみのくになり)」で始まる『神皇正統記』は軍国主義を鼓吹するテキストであるという不当で不幸なレッテルを貼られたため、戦後はほとんど読まれなくなってしまった。しかし、『神皇正統記』のテキストに虚心に取り組むと、そこからは合理主義と多元的価値観の尊重を読み取ることができる。「神国」とは、エキセントリックにならず、他国、他宗教・宗派の独自性を徹底的に尊重し、自らの価値観を他者に押し付けないところにあると北畠親房は考える。
『「生きる」という権利』を通じて、安田氏は自己の見解を率直に述べている。すでに言及したが、爆弾は人を殺傷する武器ではなく表現の手段だという類のとても同意できない言説もある。しかし、安田氏は自己の見解を他者に押し付ける言説はひとつも述べていない。ここに本書のたぐい稀な特徴があると私は見ている。その基本が、私の理解では、安田氏の他者に対するやさしいまなざしにある。
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安田氏と政治的に異にする人々にとってこそ、安田氏のテキストから、国家に抗う人々や殺人犯という公益に反し、断罪される運命にある人々の内在的論理をつかみ、そして安田氏のやさしいまなざしと強い意思から学び取れることが多くあると考える。そして安田氏型の寛容の精神を強化していくことが日本の国家体制の強化に貢献すると私は確信する。
                        (『一冊の本』2006年1月号)