じじぃの「科学・芸術_690_パスカル『パンセ』」

PHILOSOPHY - Religion: Pascal's Wager 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2F_LUFIeUk0

パスカルの賭け 神を信じるか、天国はあるか 2012/08/26 やさしいバイオテクノロジー
多くの本で「パスカルの賭け」について語られています。
今回はこの「パスカルの賭け」について書かれている比較的新しい本を紹介します。
パスカルの賭は」一般に神を信じるか、天国はあるかと言った文脈で登場します。数学者であり神学者であるパスカルらしく、数学の用語を使って、神の信仰を語ります。
パスカルの賭け」によれば、神は在るに賭けた方がよいという結果になります。
はたしてそうなのか?
https://s.webry.info/sp/yoshibero.at.webry.info/201208/article_12.html
『冒頭を読む 世界の名著世界の名著101』 熊木信太郎/編訳 論創社 2018年発行
パンセ ブレーズ・パスカル(1623〜62) より
フランスの哲学者、物理学者、作家。物理学者として気圧計や注射器を発明し、また「パスカルの原理」で後世に名を残す。没後の1669年に出版された『パンセ』は、パスカルが生前に記した覚書の断片をまとめたものである。

数学的精神と直観的精神の違い。
まず前者について言えば、原理は明白であるものの、通常用いられることは少ない。したがって、それに不慣れなために、そちらへ目を向けるのは難しい。しかし目を向けさえすれば、原理はくまなく見える。また、不健全極まる精神の持ち主でない限り、見逃すことさえ難しい明々白々たるそれらの原理から、誤った結論を引き出すことはない。
一方、直観的精神の場合、原理は通常どおりに使用されており、誰であっても見ることができる。そちらへ目を向ける必要もなければ、無理をする必要もない。それは単によい目を持つかどうかの問題であり、事実、よくなくてはならない。なぜなら、こちらの原理は極めて難解で数も多いので、何も見逃さないということがほぼ不可能だからである。さて、原理を一つでも見逃せば、過ちにつながる。そこで、すべての原理を見渡せる澄んだ目を持つだけでなく、既知の原理から誤った結論を引き出すのを避けるべく、正確な精神を有していなければならない。
ゆえによい目を持つ数学者は、直観的であることだろう。自分の知る原理から誤った結論を引き出すことがないからである。また直観的精神の持ち主は、馴染のない数字の原理に目を向けることができたなら、数学者となるはずが。
したがって、ある種の直観的精神の持ち主が数学者でないのは、自分の精神を数学の原理に適用できないからである。しかし数学者が直観的精神の持ち主でないのは、自分の目の前にあるものが見えないからである。また彼らは明白かつはっきりとした数学の原理に慣れ、自らの原理をはっきりと見て手にするまで、いかなる結論をも引き出さないので、原理をこのように適用できない直観を必要とする物事を前にすると途方に暮れてしまう。これらの原理はほとんど見ることができず、見ると言うより本能で知覚するものであり、自分で自覚できない者にそれを伝えるには、極めて大きな困難が伴う。これらのものはごく微妙で数も多いため、それを知覚し、その近くにしたがい正しく公平に判断するには、極めて繊細で、はっきりとした感覚を必要とする。ほとんどの場合、それを数学におけるように論理立てて提示することはできない。必要とされる原理が手元になく、またそうしたことを企てても際限がないからである。その事物は、少なくともある程度までは、1日ですでに見ることができるはずであり、しかもそれは一連の準備によるものではない。ゆえに、数学者が直観的精神を有している、あるいは直観的精神の持ち主が数学者であるのは稀なことであって、その理由は、数学者はこれらの直観的事物を数学的に扱おうとするからである。そして、まず定義から始め、次いで原理に進もうとして物笑いの種となる。それはこの種の推論を進める方法ではない。と言っても、精神がそのような推論をしないというのではなく、静かに、自然に、造作無くするというのである。それを表現するのは人間の力の及ばぬところであり、理解できる人間すらほとんどいない。
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しかし不健全な精神は直観的でも数学的でもない。
それゆえ数学者に過ぎない数学者は、すべてが定義と原理によって説明される限り、健全な推論を行なう。さもなければ、彼らは不健全で鼻持ちならない。なぜなら、彼らは明瞭に定義された原則から健全に推論しないからである。
一方、直観的に過ぎない直観的精神の持ち主は、これまでの業務で一度も見たことがなく、通常の経験はまったく存在しない。思弁的・観念的な事物の第一原理と向き合うだけの辛抱に欠けている。