じじぃの「科学・芸術_687_デカルト『方法論序説』」

Descartes' Mind-Body Dualism 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2aJV8cjl_80
Descartes mind and body

科学的哲学 ――演繹法帰納法
演繹法
デカルトの提唱した「演繹法」とは、疑いようのない普遍的原理から論理的推論によって個別の事柄を導く方法のことです。代表的なものは三段論法というもので、大前提・小前提・結論によって事柄を説明します。例えば、大前提で「すべての生き物は死ぬ」、小前提で「人間は生き物である」とすると、結論は「すべての人間は死ぬ」ということになります。
デカルトの思考法は主に
「明晰性」・・・速断と偏見を避け、明晰に判明するものだけを取り入れる
「分析」・・・・問題をできるだけ細かく分割する
「総合」・・・・最も単純で認識しやすいものから始めて順序を追って複雑なものに進む「枚挙」・・・・見落としのない完全な枚挙を行う
の四つの柱からできています。
このようにデカルトは絶対確実な原理を確立し、そこから物事を考えていく思考法をとり、この演繹法は近代合理主義の出発点となりました。
http://contest.japias.jp/tqj2001/40548/eneki.html
『冒頭を読む 世界の名著世界の名著101』 熊木信太郎/編訳 論創社 2018年発行
方法論序説 ルネ・デカルト(1596〜1650) より
フランスの哲学者、数学者。イエズス会系の学校で学び、終生カトリック教徒だった。1641年に出版された著書『省察録』の中で、かの有名な「我思う、ゆえに我あり」を主張する。またその他の主著として『方法論序説』が1637年に刊行されている。

良識はこの世界でもっとも公平に分配されているものである。なぜなら、我々の誰もがそれを豊富に与えられていると考えており、他のことでは何一つ満足できない人さえも、良識に関しては、自分の持っている以上のものを望まないからである。この点について、誤解は考えにくい。むしろそれが示しているのは、正しく判断し、正誤を区別する能力、すなわち良識ないし理性と呼ばれるものは、すべての人に生まれつき平等に備わっているということ、そして結果的に、我々の意見が多様なのは、我々の一部が他の者以上によりよく理性を働かせることができるからでなく、各人の思考がそれぞれ異なる方向へ導かれ、かつ同じ物事を検討していないから、ということである。すなわち、単に良識を持つふだけでなく、使いこなせるか否かが重要なのである。この上なく偉大な精神は、最高の美徳だけでなく最低の悪徳をもなし得るのであり、ごくゆっくりとしか歩かない者であっても、正しい道から外れさえしなければ、走って道を逸れる者よりも、はるかに遠くへ進めるのである。
私自身、いかなる点においても、自分の精神が並外れていると考えたことはない。事実、一部の人間が有している、素早く明瞭に考える能力、くっきりとして明確な想像を形作る能力、そして豊富かつ容易に辿ることができる記憶力を持ちたいとしばしば願ったものである。さらに私は、精神の完成に値する性質を、上の諸性質以外に知らない。なぜなら、理性あるいは良識に関する限り、それこそが我々を人間たらしめ、他の人間と区別する唯一のものだから、誰においても理性と良識は完全かつ完成されていると私は信じるものであり、この点においては哲学者の一般的な意見に従いたいのである。その意見とはつまり、ある特定の種において個体間の差は偶発性だけであって、各個体の形態とか本質に差はないのである。
しかしはばかることなく言うと、私は自分を非常に幸運な人間だと思っている。私は若いころから確かな道に乗り、それによっていくつもの見解や行動原理に導かれた。そしてそこから、徐々に知識を増やし、少しずつ高め、私の凡庸な精神と短い生涯が許す限りの到達点へと至るべく、その方法を作り上げたのである。私はすでにその方法から収穫を得ているので、自分自身の評価については、自負よりもむしろ懸念を抱こうと常に心掛けている。
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とは言え、私は間違っているかもしれず、銅やガラスのかけらを、金やダイヤモンドと誤解しているのかもしれない。自分自身と密接に関係することについて、我々はともすればいとも簡単に誤解しがちであり、友人による評価が自分にとって都合のよいものなら、それを疑うべきであると、私は信じている。しかし私は、この序説の中で、自分が辿った道を明らかにし、私の人生を一枚の絵として提示できること、そしてそれを各人に評価してもらい、世間がどう考えているかを知り、それによって自分を教育する新たな方法を、現在用いているものに付け加えられることを幸福に思う。