The Strange History Behind the Balkan Slavs 動画 YouTube
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バルカン半島 宗教地図
『オスマン帝国500年の平和 (興亡の世界史)』 林佳世子/著 講談社 2008年発行
近世オスマン社会を生きる より
15世紀以来、オスマン帝国がとってきた手法は、現実に徴税できる範囲を各責任者に任せるというやり方だった。15世紀中葉にイスタンブールを征服したメフメト2世が、イスタンブールにおいてギリシャ正教会総主教やアルメニア総主教を信徒の長に任じたのも、そのような意味においてだった。イスタンブールの総主教が税をまとめられる範囲に関して彼らに任せ、その外にあるものについては、政府は別途任命を行った。15世紀来、帝国全土のギリシャ正教徒の長はイスタンブール総主教であるという主張は、後世のフィクションとみられている。実際、オスマン帝国は16世紀にペーチのセルビア正教会を独立させるなどし、のちの総主教座の主張と矛盾する政策をとっている。
オスマン帝国のもとで暮らしたキリスト教徒の人々は、こうした教会組織の事情はともかく、身近な教会を生活の中心に据えた暮らしを築いていた。農村の場合は複数宗教の混在は少ないが、都市では、教会を中心にしたまとまりは、とくに意味をもっていた。教会の機能は、信仰や儀礼をとりしきり、また共同体内部の問題については自分たちの法を適用し、裁判その他を実施することだった。あわせて、税をとりまとめ、政府に支払った、こうして教会組織に重なる宗教共同体は、大きな自治機能をもつものとなった。
キリスト教徒は教会の法に従ったとはいえ、為政者の側はそれが、大きなイスラム法の庇護のもとにあるという認識をもっていただろう。キリスト教徒とイスラム教徒に関わる問題はイスラム法の地方法廷で扱われた。また、事業によってはキリスト教徒やユダヤ教徒も、イスラム法の地方法廷を利用することができた。特に契約や売買の法の整ったイスラム法廷が利用されることが多かったようである。
15世紀末から16世紀にかけては、オスマン帝国のユダヤ教徒がもっとも注目される「華やかな」時代だった。それは、ヨーロッパ方面から移住したユダヤ教徒が、それまで培(つちか)ってきた金融ネットワークを使ってオスマン帝国下で活躍したからである。
大規模な移住は15世紀末のイベリア半島におけるレコンキスタ(キリスト教国による国土回復運動)によってもたらされた。オスマン帝国は、1492年にスペイン、1497年にポルトガルを追放されたユダヤ教徒、さらに16世紀中葉には一旦キリスト教に改宗していたユダヤ教徒(マラーノ)を組織的に受け入れ、テッサロニキをはじめとするオスマン帝国下の諸都市に定住させた。彼らの多くは商人か技術を持つ職人だったので、その到来は歓迎された。彼らはセファルディムと呼ばれ、独特のスペイン語(ラディーノ)を用いていた。
また、同じ頃、迫害の強まったドイツやハンガリーからも多くのユダヤ教徒がオスマン帝国に移住した。彼らはアシュケナジーと呼ばれた。加えて、オスマン帝国内にはもともと在地のユダヤ教徒(ロマニオット)もいたので、ユダヤ教徒の構成は複雑なものとなった。
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オスマン帝国の社会で優位な立場にあったのはイスラム教徒である。オスマン社会はイスラムの表象に満ちていたからである。イスラム法、その原則に基づく統治、宗教からくるタブーや慣習、イスラム暦での日常などである。町にはモスクが多数建築され、ウラマー層に属する地方法官が日常の暮らしにかかわったことは前述のとおりである。メッカ、エルサレム、バグダードなどではオスマン帝国によりイスラム聖地の修復や拡充が行なわれ、特にメッカ、メディナの両聖地や巡礼路は大規模な宗教寄進の富で保護された。
そのような環境に囲まれたイスラム教徒の庶民は、個人のレベルでは、イスラムといかにかかわって暮らしていたのだろうか。
イスラム教徒は、多くの場合、中心にモスクがある街区に暮らしていた。モスクが日常生活の中心の1つだったからである。モスクのイマーム(導師)は、地方法官が統括する都市行政の末端に位置する下級のウラマーとして、日常の礼拝の指導の他、冠婚葬祭の儀礼を執り行った。街区の住民は、しばしばそのモスクに小規模な宗教寄進をし、その運営を支えている。たとえば、蝋燭(ろうそく)代を出す、イマームに報酬をはらい自身のためにコーランを詠んでもらう、といった形である。外気の規模や密集度は地域や都市によって大きく異なるが、イスラム教徒の日常にモスクがあったことは共通している。