じじぃの「科学・芸術_676_オスマン帝国・ハンガリー支配」

The Great Turkish War: Every Five Days 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VHhJj9o292k
オスマン帝国

ハンガリー国内のモスク建築

モハーチの戦い 世界史の窓
モハーチは現ハンガリー南部、ドナウ川中流の右岸。モハッチ、モハーチュとも表記する。
1526年、オスマン帝国のスレイマン1世はバルカン半島からハンガリーに進撃し、神聖ローマ帝国ベーメン王国(チェコ)とハンガリー王国の連合軍とモハーチで対戦した。
https://www.y-history.net/appendix/wh0803-025_1.html
オスマン帝国500年の平和 (興亡の世界史)』 林佳世子/著 講談社 2008年発行
レイマン1世の時代――1520〜1560 より
怒涛のような8年間にオスマン帝国の面積を2倍にしたセリム1世の後継者は、1520年に即位したスレイマン1世であった。オスマン史でもっとも名の知れたスルタンである。
しばしば彼によってオスマン史が代表されるのは、1つには、スレイマンに率いられたオスマン軍によるウィーン包囲の記憶が鮮烈なこと、もう1つには愛妃ヒュッレムがロクソランの名でヨーロッパの人々の間でよく知られているからだろう。彼はヨーロッパでは壮麗王の美称で知られた。
オスマン帝国の脅威にさらされたヨーロッパの人々にとって、スレイマンは、その剣を自分たちの喉もとまで突きつけた恐るべき王だった。その一方で彼は、キリスト教徒の女奴隷だったロクソランに操られたと伝えられる。ハレムの艶(なまめ)かしいイメージとともに、彼の時代がヨーロッパの人々の空想をかき立てたとしても不思議ではない。
同時に、前者はオスマン帝国の興隆の頂点を、後者は凋落の始まりを象徴してもいる。彼の時代は、頂上を極めると同時に、頂上を超えたあとに必ず訪れる長い下り坂の始まりだとする見方は、こうしたスレイマン像と無関係ではない。
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バルカン情勢はハンガリーを軸に動いたが、その東にオスマン帝国の属国モルドヴァの動きも、オスマン帝国には関心の的だった。1538年には、スレイマンハプスブルク家と秘密の協約を結んだ疑いでモルドヴァに遠征し、その黒海側を直接支配地とする措置をとっている。これにより、モルドヴァ公の支配域は内陸に限られることとなった。オスマン帝国からすると、クリミア・ハン国タタール人の国)との陸路での往来のルートが脅かされる心配を取り除いたことになる。前述のように属国クリミア・ハン国からの騎兵軍は、オスマン帝国のバルカンでの戦争に欠かせぬ存在となっていたからである。
1541年にトランシルヴァニア侯サポヤイ・ヤーノシュが死ぬと、33年のハプスブルク家オスマン帝国の間の和約は破られた。サポヤイの子はまだ生まれていなかったため(妻は妊娠中)、フエルディナントがその後継を主張し、ブダを占領したからである。このためスレイマンハンガリーに遠征し、再度ここを征服、トランシルヴァニアを属国とし、ハンガリー南部をブディン州としてオスマン帝国の直接支配域に組み込む決断をした。ブディン州ではまもなく徴税調査が行われ、地方法令集を定めた上で、ティマール制が施行された。その後、150年間にわたってハンガリーの主要な地域はオスマン帝国の直接支配下に置かれることになった。
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レイマンの時代のイスタンブールの人口がどれほどだったかについては、確かなことをいうのは難しい。1479年には10万という推論をするに足る戸数のデータがあるが、その後は適当な史料が存在しないためである。このため、しばしば40万程度ともいわれてきたが、近年の研究では、市壁内の人口は多くて20万程度と下方修正されている。しかしそれでも、ヨーロッパ1、2位の都市であることに変わりはない。
その男性人口の多くは、イスタンブールの大バザール地区などの商業施設に店を構える商人・職人、その弟子や従弟、荷運びたちだった。先に述べたように、その6割弱がイスラム教徒であったと推定されている。軍人やウラマー、書記などからなるオスマン帝国の支配層の大半も市内に居住した。市域は対岸のアジア側にも広がり始めていた。