じじぃの「科学・芸術_444_ハンガリー・オスマン帝国の痕跡」

THE HUNGRY Trailer | TIFF 2017 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Gfg8gGR-3oA
モスクの尖塔(ミナレット

ハンガリー モハーチで繰り広げられる"なまはげ"祭り 2003/02 4travel.jp
ハンガリーの南のはずれ、モハーチでは毎年2月に日本の"なまはげ"によく似た「ブショーヤーラーシュ」というお祭りが繰り広げられる。
なまはげそっくりのブショーさんが町を練り歩き、あちこちで民族舞踊のイベントが繰り広げられたりする、いかにも昔ながらのお祭り。
https://4travel.jp/travelogue/10113946
ハンガリーを知るための60章【第2版】』 羽場久美子/編著 赤石書店 2018年発行
ミナレットとブショー――オスマン帝国の痕跡を訪ねる より
ハンガリーを訪れる観光客は歴史上に存在した3つの大帝国の痕跡があちこちに残されていることに気づくはずだ。つい100年前までハンガリーもその一部だったハプスブルグ帝国の面影は言うに及ばず、ハンガリー人が到来するはるか以前にここに都市や要塞を築いたローマ帝国の遺跡にも出会うことができる。
ブダペスト市内の古代ローマ遺跡、たとえば郊外のアクインクム遺跡やエルジェーベト橋のたもとの広場にあるコンラト・アクインクムの遺跡を訪ねれば、ドナウ湖畔のこの場所が、東方の「蛮族の地」からローマ帝国という「文明の地」を守る最前線であったことを知ることができる。
16・17世紀にこの地まで版図を広げたオスマン帝国の痕跡もまた、街のそここそに残されている。ブダペストドナウ川右岸(ブダ)は、1541年にスレイマン1世が無血占領し、1686年にハプスブルグ軍が激戦のすえ奪還するまでの約1世紀半にわたって、オスマン帝国ハンガリー支配の拠点だった。
彼らが持ち込んだイスラム文化の代表格が浴場である。オスマン時代のハンガリーには多くの浴場施設が作られたが、古代から源泉に恵まれたブダには少なくとも6つの施設が建てられた。そのうちのいくつかは当時の建造物が今も現役で使用されている(キラーイ温泉、ラーツ温泉、ルダシュ温泉)。
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モスクには尖塔(ミナレット)がつきものである。キリスト教会に変ったモスクの多くではのちにミナレットは崩れたり取り壊されたりして、完全な形ではほとんど残っていない。もっとも往年の風貌をより完全な形で残しているのは、ペーチにあるヤコヴァーリ・ハッサーン・パシャ・モスク。このモスクも一時期キリスト教会として用いられていた。北東部のエゲルには、街の一角にミナレットだけがそびえたっている。脇にあったモスクは、やはり18世紀にキリスト教会に転用されたが、19世紀に取り壊されて、新しい教会の建材に使われた。高さ40メートルにもなるミナレットに昇って、オスマン軍との数々の戦いの舞台となったエゲルの要塞を眺めれば、歴史の流れに心が震え、あまりの高さに脚が震えるだろう。
このように「残された」建物を眺めていると、オスマン帝国ハンガリーに「来て去った」、ひと時のエピソードのような存在に思えるかもしれない。しかし、オスマン帝国がやってくることで促された人と物の活発な動きは、当時もその後も多彩な文化を花開かせた。南方から移り住んだスラブ系の人々(セルビア人やクロアチア人など)とその文化は、ハンガリーの地に溶け込んで、欠くことのできない要素をなしている。その代表例が、南部の町モハーチの春の祭、ブショーやヤーラーシュである。仮面をかぶったブショーたちが通りを練り歩くこの祭りは、南スラブ系のショカーツ人と呼ばれる人々の祭りとあって、バルカン半島各地に残る民族慣習と強い共通性を持っている。まだ冬の寒さが残るモハーチの町でブショーたちの大騒ぎを眺めるには、シナモン入りのホット赤ワインで暖を取るのが欠かせない。そう、それまで白ワイン中心だったハンガリーに赤ワインをもたらしたのも、オスマン時代の人間の活発な交流だった。オスマン帝国がなければ、いまのハンガリーの豊かな赤ワイン文化もなかったかもしれないのだ。