じじぃの「科学・芸術_672_アメリカの20世紀・カーターの時代」

Jimmy Carter 1976 Cartoons -- "Jimmy Who?" 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=PLccJE5PxiA

カーター 世界史の窓
アメリカ合衆国第39代大統領。民主党。在職1977〜1981年。人権外交を展開しパナマ運河返還を実現したが、イラン革命などの外交処理を誤り1期で終わった。
アメリカ合衆国民主党の政治家。南部のアーカンソー州知事。1976年の大統領選挙で、南部出身のリベラル派として、黒人と労働者層の支持で共和党のフォードを破り当選した。中央では無名だったので、立候補したときは Jimmy, Who? と言われた。内政課題のインフレでは減税策を採ったためかえって増進させ、減税率を引き下げたため、国民の信頼を失った。また1979年にイラン革命直面し、第2次石油危機が始まると、エネルギー政策の全面的見直しを提唱、アラブ原油依存体質の転換を図った。
https://www.y-history.net/appendix/wh1604-016_2.html
『空の帝国 アメリカの20世紀 (興亡の世界史)』 生井英考/著 講談社 2006年発行
冷戦の空の下 より
20世紀のアメリカ社会に最大の影響をおよぼした戦争はいうまでもなく第二次大戦だが、それと同じくらい――あるいは見方によってはそれ以上に――永続的な影響を与えたのがヴェトナム戦争であることには、おそらく誰しも異論がないだろう。「アメリカ史上最長の戦争」に始まって「宣戦布告なき戦争」「前例のない戦争」「イレギュラーな戦争」「奇妙な戦争」「名誉なき戦争」「英雄のいない戦争」「汚れた戦争」「誤った戦争」等々、否定的な形容ばかり冠せられてきたこの戦争は、過去のアメリカのいかなる戦争とも違うユニークな戦争だった。すなわち正面からの大規模な正規戦が展開された第二次大戦と違って、あくまで「同盟国支援」が名目の限定戦争で、かつ神出鬼没の市民ゲリラを相手とする特殊な戦争である。しかも、にもかかわらず大小さまざまな誤算によってとめどない大規模介入に拡大した結果、合衆国によっては初めての惨めな敗北に終わった戦争でもあった。その意味で「大義ある戦争」または「よい戦争」として一般に知られる第二次大戦とヴェトナム戦争は、あらゆる面で正反対だったのである。
     ・
インドシナにおけるアメリカの戦争努力はすべて水泡に帰し、威信は地に墜(お)ち、国力は傾き、人々の心は挫折感に萎縮した。現在にいたるまでのその後のアメリカ社会の歩みはここに始まり、無残な記憶との苦闘に明け暮れ、なんらかの危機に遭遇するたびに「ヴェトナムの失敗」を想起しては世論を揺るがされ、その行動を左右されてきたのである。
急いで断っておかなければならないが、これは何も「ヴェトナムの悪夢」にさいなまされたアメリカが単に外交的にも萎縮し、無力化して他国への干渉を一切やめてしまったという意味ではない。個々人の場合と同様、社会にとっても悪夢や心的外傷(トラウマ)はその心を歪ませ、思考を左右し、態度に影響を与える。つまり外交的にふるまおうと内省的に引きこもろうと、その行動は何らかのかたちで過去の悪夢や外傷の記憶に制約され、痛みから逃れるためなら何にでも飛びつくような不安定な心的メカニズムを内に秘めているのである。
おそらく、こうした社会の心理に悩まされた点では、ヴェトナム戦争後に誕生した最初の大統領であるジミー・カーターほど悲運の存在もほかになかったといえるかもしれない。
カーターは海軍士官学校を卒業後、潜水艦隊勤務を経て初期の原子力潜水艦計画にも参加した元職業軍人だが、国民が評価したのは公民権運動にも尽力した敬虔なバプティスト派クリスチャンとしての面のほうで、軍事主義(ミリタリズム)よりもずっと手間のかかる平和主義(パシフィズム)を合衆国の国政の歴史に根づかせるという途方もなく遠大な事業に着手した初めての大統領だった。「国家安全保障(ナショナル・セキュリティ)」という言葉はミリタリストが使えば単なる軍拡主義の言い換えに過ぎないが、パシフィストが使えば左右両派を納得させるという不可能に近い目標への挑戦を意味する。結局、平和を構築するのは戦争をを始めるよりもはるかに難しいことなのだ。そしてカーターはこの事業に意欲的に取り組みながらも選挙の年に起こったイラン革命アメリカ大使館の占拠事件のために、あえなく再選の芽をつまれてしまった。その意味でカーターは「ヴェトナム以後」だからこそ登場した悲運の大統領であり、彼がし残した事件は合衆国の外交史における――ひょっとしたら永遠に、かもしれない一面をはらむ――未完のプロジェクトだったということになるだろう。