じじぃの「歴史・思想_86_中東の世界史・イスラム原理主義」

Iran-Israel conflict escalates - BBC Newsnight

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZEGiaYYo7Nc

『「中東」の世界史 西洋の衝撃から紛争・テロの時代まで』

臼杵陽/著 作品社 2018年発行

原理主義」と宗教復興 より

中東そのものが根本から変化しているのではないかという指摘は、世界史の教科書にも記されている。「イスラーム的な理想の社会をつくろうするイスラーム原理主義が、イラン革命を契機にさかんになり、民衆の幅広い支持を得て、社会改革の夢を与えることになった。彼らはイスラーム政権の樹立をうったえたが、一部の過激な組織はテロ行為をくりかえし、強く批判されている」。
この教科書(東京書籍)では「イスラーム復興運動」に関して次のような注を付している。「1970年代には合衆国で、学校教育では、進化論ではなく神が天地万物を創造し、人類の祖であるアダムをつくったことを教えるべきだとする「キリスト教原理主義(ファンダメンタルズム)」の運動がさかんになった。イスラーム復興運動を、これにちなんで「イスラーム原理主義運動」と呼ぶこともある。
英語で「ファンダメンタルズム」と言う時は、一般的にはクリスチャン・ファンダメンタルズムを指す。『ファンダメンタルズム』という冊子がその語源になっている。原理主義は元々、キリスト教徒の世界での語であり、「クリスチャン」という形容詞無しでアメリカでは通用していたのである。
キリスト教にはたくさんの宗派があるが、特にプロテスタントでは19世紀以降、聖書の起源が文献学的に厳密に分析された。旧約聖書を含め、どこから来たものかということが文献学的に明らかになっている。その結果、聖書は神の言葉ではなく人間が作ったものだとなるわけだが、神の否定に近いような議論さえ出て来ているという学問的な状況がある。当然ながら、それに対する強い反発が出て来ることになる。そのような歴史的背景の下に登場してきたのがファンダメンタルズムなのである。
しかし、1979年のイラン革命の際、アメリカ合衆国の大使館がテヘラン大学の学生に占拠され、アメリカは大使館を救出するために海兵隊を送ったが、ヘリコプターが墜落し作戦は失敗する。その後、アメリカ世論において、イスラームを信仰する者たちは狂信的な連中だというイメージが強まり、それを早速、アメリカ国内のキリスト教徒のファンダメンタリストにイメージに重ねたのである。人工妊娠中絶は罪だとしして中絶手術を行った医師を銃で撃ち殺したり、あるいは進化論は間違っているので学校で教えるべきではないと主張する「狂信的」なキリスト教ファンダメンタリストのイメージを、その形容詞を変えてイスラームに結び付けた「イスラミック・ファンダメンタルズム」という言葉が作られた。それが日本に輸入され「イスラム原理主義」という言葉がマスコミで使われ始めた。日本におけるこの言葉の起源は、アメリカにおけるキリスト教原理主義から来たものだと言っていいのである。
一部の日本の研究者は、「イスラム原理主義」という表現は、あまりにもキリスト教的影響を受け過ぎているとして、「イスラーム復興運動」という表現を使う。よ言うのも、ファンダメンタルズムは、聖書に書かれていること、つまり、神の言葉はすべて真実であり、だから一字一句替えてはならないという立場を原則的にとるが、それはイスラームにとっては当たり前のことであるからだ。コーランハディース預言者ムハンマドの言行録)はすべて神の言葉であり、変えてはならない、とされている。この「原理主義」に関する議論をイスラームに適用していくと、イスラーム教徒はすべてファンダメンタリストになってしまう。換言すれば、いわゆる同義反復(トートロジー)になってしまうので、「イスラミック・ファンダメンタルズム」などという言葉は意味がないことが分かるだろう。

アメリカ中東戦略のダブル・スタンダード より

繰り返しになるが、1979年に起きたのはイラン・イスラーム革命だけではない。ホメイニーが政権を獲得したのが2月で、アフガンにソヴィエトが軍事新興したのが年末である。さらに、アラブ・イスラエル紛争の最中、エジプトとイスラエルが手を組み、1979年3月に平和条約を結んだことで、アラブ・イスラエル紛争の構図が大きく変わってくる。この1979年に起こった諸事件が徐々に影響を与えながら、ISの登場のような政治状況を作り上げていったのである。
さらに言えば、アメリカは1979年以降、非常に苦しい両義性を帯びた背反政策を取らざるを得なくなる。つまり、一方のアフガニスタンではイスラームと手を組み、他方のイラン・イラク戦争ではイスラームを排斥するという二正面作戦を取らざるを得なくなったからだ。
     ・
これまで中東の近現代史を概観してきたが、中東はトランプ大統領の登場によってこれまでとは違った方向へと進み始めた。特に、2017年12月に同大統領が駐イスラエルアメリカ大使館をテル・アヴィヴからエルサレムに移転する決定を行ってからパレスチナ人の反発が続いている。東西統一エルサレムを首都とするイスラエルの主張を国際社会のほとんどが認めていない現状がある。EUを中心に多くの国がこの移転に強く反対している。にもかかわらず、アメリカは2018年5月14日のイスラエル建国記念日に移転を強行した。イスラエルにとって建国70周年という節目の日でもあった。この移転はトランプ大統領の「アメリカ・ファースト」政策を推進するため、アメリカ国内のユダヤ人の票やキリスト教福音派の票を見込んだ高度な政治判断であったと評価されるのである
アメリカはさらに、オバマ大統領時代の2015年に結ばれたイランとの核合意からの離脱をも表明した。アメリカの新たな中東政策によって、中東は新たな段階に入ったとも言える。
歴史的に振り返ると、中東という地域は19世紀の東方問題をはじめとして、ヨーロッパ諸列強に翻弄された。20世紀に入って第一次世界大戦を迎えると、中東のほとんどが列強の支配下に入った。第二次世界大戦後、イスラエル建国を機にパレスチナ問題を中核とするアラブ・イスラエル紛争が勃発した。そして1979年のイラン革命を端緒にイラン・イラク戦争、さらに米ソ冷戦終焉直後にイラククウェートに侵攻したため湾岸戦争が起こった。アラブ諸国の独裁体制が倒れるという「アラブの春」を経て、「イスラーム国(IS)」が登場した結果、シリア内戦が泥沼化していった、2世紀以上にわたってこの中東地域が抱え込んできた諸問題がいよいよ断末魔的な様相を呈し始めているのである。