じじぃの「科学・芸術_648_梶山季之『族譜』」


世界史用語解説 授業と学習のヒント 創氏改名
●Episode 梶山季之の『族譜』
朝鮮植民地時代の創氏改名を扱った文学に梶山季之の『族譜』がある。
梶山は大衆作家として著名になったが、この作品は若いころの作品で、彼自身が朝鮮で育ったことから朝鮮を題材にした一連の作品を残しており、その一つであるこの作品は高い評価を受け、韓国では映画化もされている。『族譜』とは、朝鮮のいわゆる宗族(氏族集団)が代々書き継いでいる家系図であり、朝鮮の人々が先祖から受け継いだ最も貴重なものとして受け継いでいる。この小説は、朝鮮総督府創氏改名を強制されたことによって、姓を奪われることは『族譜』を断絶することであり、先祖を裏切ることになると悲しんだ朝鮮の地方名士と、それを説得しなければならない総督府の日本人役人の葛藤を描いている。実際には族譜がなくなるようなことはなかったので、梶山の作品には誤解もあるようだが(詳しくは前掲の水野氏の著作を参照)、朝鮮植民地の官吏であった日本人の苦悩がよく描かれていて、無邪気な植民地礼賛を戒める意味でも一読し見るとよい。
https://www.y-history.net/appendix/wh1505-067.html
李朝残影―梶山季之朝鮮小説集』 梶山季之/著 インパクト出版会 2002年発行
『族譜』 より
甘いといえば、たしかに甘い。僕の父親は官吏だった。僕が5つのときに一家は京城に移住した。だから僕は、小学校から中学3年までを、京城で過ごしている。その後、一家はふたたび内地に戻り、僕は中学を卒業して美術学校へ行った。でも、なぜか僕には朝鮮の風景が忘れられず、姉の嫁いでいる義兄を頼って、また京城に舞い戻ってきたのだった。だから僕は、ある程度、朝鮮人たちの暮らしぶりを、知っているつもりでいた。いや、だからこそ創氏改名が、一種の恩恵だと考えたのだったが……。
この朝鮮では、日本人は支配者であった。そして朝鮮人は、奴隷的な地位にあった。僕は子供の頃、このことに別に疑問を抱かなかった。漠然と、彼らが可哀想だと思うことはあったが、なぜ朝鮮人がそうなったかに就いて、考えたことはない。僕が、日本が朝鮮を侵略したときの、過酷で卑劣な手段を知ったのは、美校に入ってからのことである。でもそれも、頗(すこぶ)る皮相的なものでしかなかった。
「内鮮一体」という標語が掲げられても、日本人(朝鮮では内地人という言葉を使っていた)には、抜き難く鮮人に対する蔑視感が植え付けられている。それは子供たちが、鮮人に対して口をとんがらせて叫ぶ、
「ヨボの癖に!」
という何気ない言葉にも、はっきりと示されていた。この言葉、当時の朝鮮ではオール・マイティだったのである。その言葉の裏には、<朝鮮人の癖に日本人に口答えするな>とか、<生意気をいうな>といった意味がこめられている。ヨボというのは「もしもし」という、元来が呼びかけの朝鮮語であるが、日本人は、それを鮮人または奴隷というような意味で使っていたようだ。
だから、彼らを創氏改名させて日本名で呼び、対等な口を利いて交際する……という政策は、古くから朝鮮に住んでいた日本人にとっては、何かいまいましいような恩典というのが、共通した考え方であり、感情でもあったわけである。この蔑視感は、この風土に30年にわたって培われてきた。植民地のこのような感情は、なかなか拭いきれるものではない。
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第三次工作の対象に択ばれたのは、蒔鎮英の5人の孫たちである。学年は違うが、孫たちはそれぞれ国民学校で、級長や副級長に選ばれていた。どのように手を回したのかは知らないが、当時は教師を使って、その孫たちをいためたのだ。それは一種の神経戦術というべきものであった。
「おや、このクラスにはまだ日本人になりきれない生徒がいるな?」
というような調子から始まって、終いには、
創氏改名しないのは日本人ではない。明日から学校へ来なくてもいい!」
という風に、教壇の上から、じわじわと締めつけて行ったのだという。なにも判らない他の生徒たちは、この教師の言葉を楯にとって、蒔鎮英の孫たちを、よい機会だとばかりにはやし立てる。大地主の孫だけに、こんな機会でもなければ、いじめられぬのだ。
孫たちは、帰宅するなり祖父の室に駆け込んで、なぜ創氏改名して呉れないのか、と不満そうにきいた。蒔鎮英は、最初のうち、しなくてもよいのだと教えたらしい。ところが泣きながら帰宅するようになり、挙句の果は、朝になっても学校へ行かないと、駄々をこねて泣くようになった。わけを聞いてみると先生が創氏改名しない子供は学校へ来るな、と言ったという。2、3日は、なだめすかして登校させた。しかし終いには、皆からいじめられると言って、どうしても学校へ行かないと泣くのだ。
頑是ない子供であった。祖父の意地も、族譜の尊さも知らない。孫たちは、ただただ祖父が創氏改名をしてくれないのが、悪いのだと思っている。また、そのように学校で教え込まれている。さすがに蒔鎮英も、5人の孫から責め立てられて、すっかり神経衰弱気味となった。来る日も来る日も、5人の孫が、かわるがわる哀訴嘆願するのである。
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死骸は翌朝発見された。飼犬が、古井戸の周りをくるくると吠えて、家族に異変を伝えたのである。玉順はじめ、息子たちにも電報が打たれた。駆けつけた玉順は、冷たい父の遺体に抱きつき、身悶えしながら号泣した。家族が調べてみると、僕に宛てた遺書が一通混っていた。僕に電報が打たれたのは、そのためである。
玉順たちの目の前で、僕は蒔鎮英からの遺書を開いた。いまこそ僕は裁かれるのだ、という気持ちがして、膝頭が小刻みに震えていた。ところが遺書の中身は、意外なことであった。先ず生前の短い交諠を謝し、愚かにも祖先に殉ずる私を笑って欲しいと述べたあと、彼はこんなことを私に依頼してきたのである。
「……私一代にて、伝統ある薜一族の族譜も無用の長物となりたるは、誠に残念なれど、さりとてこの資料を焼却するにも忍び難く候。就きては、よき理解者たる貴下に、その取捨を一任したく、でき得れば京城帝大にでも寄贈方、お骨折り下さらば幸甚これに過ぎたるはなく……」