じじぃの「科学・芸術_631_黒人文化・コトン・クラブ」

Cotton Club Dancers Bust Some Moves 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=RgcJyZA-rrE
The Rolling Stones - Harlem Shuffle - OFFICIAL PROMO 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nAkMTu6q2pY
Cotton Club

『ニューヨークからアメリカを知るための76章』 越智道雄/著 赤石書店 2012年発行
コトン・クラブ 白人による黒人文化の売り方の見本 より
苦しい生活、あてどない人生への「青い悪魔」(ブルース)を基調に、それを吹き払う「ジズム」として生まれたジャズは、至る所で黒人の暮らしの糧になったが、コトン・クラブほどその糧が白人との相剋の渦中に置かれた場所はなかった。ここでは、この店のオーナーだったオウニー・マドンという英系ギャングが白人客を黒人芸人と絶対的に分離する営業方針を貫いたこと(店名のコトン<綿>は白人、<原綿>は芸人に多かった「クオドルーン<4分の1混血>を象徴)、それでもゲイとレズとバイセクシャルを基調とする両民族の接点があっとことけ記しておく。そして、第1次ハーレム・ルネサンスの花形だけ瞥見するに止める。
コトン・クラブのフロア・ショウは2時間区切りで、「セピア・コーラス・ライン」と全員タクシード姿のバンドが圧巻だ。前者は21歳以下、身長5フィート6インチ以上の混血娘(「ハイ・イェラー<スラリと上背のある黄色い>」と形容)で、芸人や娼婦には黒人の血が4分の1入った混血娘が歓迎された(混血は異質な血の衝撃によって美貌である比率が高まる)。彼女らは、普通、「ブラウン・シュガー(赤砂糖)」と呼ばれた(ヘロインの意味もある)。
A列車で行こう」の作曲者ビリー・ストレイホーンは、当時としては異例の「オープン・ゲイ」(「カムアウト」したゲイ。カムアウトしていない場合は「隠れゲイ<クロゼティッド・ゲイ>)」で、当時なりの解放運動にも携わっていた。そして名歌手ベッシー・スミスはレズだった。
ハーレムまで出向いてバイセクシャルに耽った有名白人には、女優のタラ・バンクヘッドやデュポン一族のルイザ・カーペンター・デュポン・ジェニーらがいた。「ハーレムには歓楽と寛容さがあって勇気が出ている。あそこでなら自分自身でいられる」(ブレア・ナイルズの1931年の小説『ストレンジ・ブラザー』のゲイの登場人物の台詞)。
コトン・クラブと違って白人と黒人を分離しない店では当然、狭いダンスホールでは立錐の余地もなくなるので、ダンスというより摺り足踊り(シャフル)が精一杯だった。おそらく名曲「ハーレム・シャフル」(1963)の起こりだろう。この曲は、ローリング・ストーンズが86年にカヴァした。
「♪はい右へ、あとは気の向くまま、お次は左へ。こればっかしで夜もすがら、自分のソウルは目一杯、それでも動きはスロウ、スロウ」。かといって、ダンスが終わり、情事が終れば、白人たちは元の世界へそそくさと戻っていったのである。
コトン・クラブに出演していた黒人の大スターには、デューク・エリントンルイ・アームストロング、リーナ・ホーン、ベッシー・スミシ、カウント・ベーシー、エラ・フィッツジェラルド、ディジー・ギレスピー、ナット・キング・コールビリー・ホリデイ、ドロシー・ダンドリッジらがいた。トップ・ダンサーには、まだ年齢もいかない、あのサミー・デイヴィス・ジュニア(伯父のウィル・マスティンが組んだトリオで出演)。
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エリントンだけでなく、ハーレム・ルネサンス全体に言えることは、この黒人文化の前面的開花が白人の黒人観を激変させたことである。つまり、白人はこのおかげで自分たちの黒人観を洗練できた(「青い悪魔」を「ほどき、再編成させた」黒人側の成果があったればこそ、これだけの威力を発揮できたのだ)。白人が黒人に魅了されたのは、南部の田舎から出てきた黒人がハーレムで都市化し、自分たちの洗練をなしとげたこととも関連していた。黒い肌には、黄金色、鮮烈な白や赤など、それと競い合える強烈な色彩が似合う。黒人たちは、服装やアクセサリーのアンサンブルから始まって、感性や精神の掴みまで鮮やかに装飾してのけた。また、カール・ヴァン・ヴェクテン(ゲイ)のような白人文化人がラングストン・ヒューズらの黒人作家たちと交流したことが、その後のアメリカ社会に行き渡る進歩主義の嚆矢(こうし)となった。